生物学者 福岡伸一先生「動的平衡」が面白くて

『生命とは…』

身体を構成している細胞をみて、一つの生命として捉えることもできるし、ヒトのからだを一つの生命と捉えることもできる、同じように一つの社会、地球、宇宙という単位でも一つの生命と捉えることができるので、何を生命と捉えるかで生命の定義は変わるとお話しされていました。

小さな一つ一つを生き物と見ることもできるし、引いて見てみれば、全体で一つの生き物と見ることもできる…

特徴の違いに名前をつけて「カテゴリー分け」することはできるけれど、本質的には分けられないということでしょうか?

分子や原子レベルで見れば、人間の肉体の構成成分は食べた食物が細胞間で常に交換されている為、昨日の肉体と今日の肉体は違うそうです。

物質的に見れば1年前と比べたら全く入れ替わっているとか…

『自分とは何か?』

生物学的に見れば、絶え間なく分子が入れ替わっている(動的)ので、記憶だけが自分を自分と見なしているとおっしゃっていました。

人間は、生命が流動的であるという普遍性に対して不安があるので、外部に自分とは何者か(自己一貫性)を証明するものとして、社会的な立場や国籍、性別、家柄、経歴など時間軸に自分を証明する記録(過程)を残そうとしているとおっしゃっていました。

もう少し長いスパンで肉体を見れば、動物はいつか土に還るし、土は植物を育て、動物のご飯となる…循環してゆく一過程にすぎないという事実に対して、後付けした自分観(名前、性別、家柄、国籍、役割…)に必死にしがみついているという感じでしょうか?

「自分はこの小さな肉体や考えなのだ」という結論を持っているので、人間の根底には不安や恐れがあるということですかね。

その恐れを取り除きたくて、何かを成し遂げよう、認められようと「行い」に駆り立てられているのでしょうか。

 

私にとって、「自分とは何か?」そのことをはっきり教えてくれたのが、ヴェーダーンタの聖典と先生でした。

自分自身を制約している「自分観」から自由にしてくれる教えに出会えただけで、すっかり安心していますが、

子育てが落ち着いたら、ゆっくり腰据えて、サンスクリット語で聖典が読めるようになりたいなと思って楽しみにしています。