ヴェーダ(インドのあたりの文化、知識体)では、この宇宙は全体でたった一つの生命体であると考えています。

 

全体といっても、なかなかイメージしにくいので、規模を小さくして例えると

交響曲を奏でるオーケストラは、バイオリンやチェロ、太鼓にフルート、オーボエ…など様々な楽器がそれぞれの役割を果たして、一つの交響曲を作ります。

太鼓がトライアングルに「お前なんて役立たずだから、いらないよ。俺様の方が優っているぞ!」と威張ったとしても、全体を統括する指揮者は知っています。

トライアングルがなくなると曲が完成しないことを…

 

 

色とりどりの個性には、特徴の違いがあるのであって、優劣があるわけではないのです。

みんな違って、みんないい…

それぞれが与えられた役割を果たすことで、1つの曲が完成します。

トライアングルが太鼓になろうとするのは、道理に合いませんね。

でも、普段の私達をみると、自分以外の何かになろうとして時間を無駄にしていることって案外あることだと思います。

 

生態系(エコロジー)の観点から、森を見るとき、個々の植物や動物が独立して生きてるのではなく、太陽や空気、水などの要素はもちろん、多種多様な植物、無数の虫やバクテリア、鳥や熊などの動物達の全てが絡み合いながらバランスを保っています。何かが過剰でも、欠けてもバランスが崩れてしまうように、森全体で一つの生命体であるとみます。

 

生態学者は地球が1つの生き物だと言いますが、

ヨーガは地球どころか、宇宙全体が1つの生き物だとみます。

ヨーガは、質の違いをなくして一つになろう!と言ってるわけではありません。

そもそも一つだというのです。

様々な質の違いが、拮抗と調和を繰り返し、全体として一つの完璧な姿を保っています。

しかし、全体の中で生かされている個人は全体を見渡すことはできません。

だから、私と私以外のものがあって、この皮膚の内側だけが私だと結論付けています。

個人は当然、限りのある存在ですから、満たされない思い(コンプレックス)があり、それを原動力に、自分の外側や内側に安心・安全・喜び・調和を求めます。

ヨーガは、何を得ても、何になっても、理想の状況を叶えたとしても、いくら自分の外側の状況を変えても、自分自身が満たされることは決してない、と言います。

 

自分自身に対する見方(認識)を変えない限り、安心や安全は束の間のもので、過ぎ去って行く…そして再び、束の間の安心や安全を得るために、目標を変えて行いをし続ける、と言います。

まるで、ハムスターが回転車を走るみたいに。

 

松葉杖をついている人は、松葉杖そのものが欲しいのではなく、松葉杖がなくても大丈夫な自分が欲しいのです。

松葉杖に例えられているものは、私たちが普段求めている安心材料のことです。

学歴、成功、お金、保険、資格、名声、家族、子供、マイホーム…

 

「安心材料そのもの」が欲しいのでは無く、それらを得て「安心している自分」が欲しいのです。しかし、ものや状況に頼っている安心感や喜びは、必ず去ります。

なぜなら、安心材料そのものが有限だからです。

人の数だけ、人生には多種多様な目標があるように見えるけれど、どの国の人も、いつの時代の人も、自覚していても、していなくても、みんなが「限りのある自分」という結論を持っていて、その結論からの自由を得たいという根本的な願望があり、その願望ゆえに行いに駆り立てられている、と言います。

しかし、その方向性では決して解決はないと教えているのがヨーガです。

 

ヨーガは自分とは何か?宇宙とは何か?を正しく理解することで、限りのある自分という結論からの自由(解決)を得ると言います。「行い」ではなく「理解」によって叶う結果だということです。

また、人はみな自分自身の本質を知らないがゆえに、問題がないところに問題を見ているとも言います。

ちょうど暗やみにあるロープを蛇と見間違えて、恐れているようなものだと例えます。

明かりが灯され、ロープであることを知ったなら、恐れは消え去ります。

 

自分自身の本質を理解することで、恐れがなくなりますから、安心材料があってもなくても大丈夫な自分が発見されます。なくてはならない「必需品」であった安心材料は、「贅沢品」となり、気持ちにゆとりが生まれます。

 

 

知らないが故に、恐れる必要のないことに恐れを持っている…そして、その恐れを取り除くために人生を費やしていると。

ヨーガの教えは「灯」に例えられます。

「暗やみ」に例えられる、自分自身に対する「無知」を追い払うための道具なのです。

 

 

 

ヨーガの教えによって、無知が追い払われると、あるがままのものを あるがままに見られる考えの整理整頓がなされ、価値構造が整います。

ヨーガとは、行いを通して考えの整理整頓をすること

与えられた役割や仕事を通して、考えを綺麗に整え、ヨーガの教えを理解することで、完全な自由があると言われます。

ヨーガのゴールである「モークシャ」は、自由、解決、と翻訳されます。

モークシャを求めた生き方のことをヨーガと言います。