昨日は、アーユルヴェーダの古典に記載されている「学習法」を学びました。

アーユルヴェーダという生命科学を勉強する生徒の資質、学びを成功させるための心構えと態度、また、教わる先生はどのような人が相応しいかについて細かく書かれていました。

まず、アーユルヴェーダを含むヴェーダの聖典や古典は独学する事ができません。

例えサンスクリット語が読めたとしても、読み手は文脈からどうとでも解釈する事ができるので、本来の意味とは全く違った解釈になってしまうことがよく起こります。ましてや時代も文化も言葉も違えば尚のことです。

初めから聖典と先生はセットで仕込まれていて、ヴェーダの文化ではその教えの方法論が発達していたので、長い長い歴史の中でも知識が歪められる事なく現代まで受け継がれてきたようです。

ですから、教える先生は聖典や古典に精通していて、その分野の知識を知り尽くしていて、それを実践できている人であり、師から弟子へと伝わる教えの伝統の中で学んだ人を選ぶべきだと言われています。

先生はその分野の知識を深める事以外には興味がなく、その分野の話をしている時はいかにも幸せそうに輝いているので、その輝きによって生徒は照らされます。

よく知識や先生は火や灯りに例えられ、暗闇は無知に例えられます。

知識のあかりが灯ったなら、暗闇である無知は追い払われてしまいまうからです。

私たちに無知がある時、迷いがあります。沢山の選択肢があるように見えてしまいます。

はっきりとした知識がある時、迷いはありません。

やるべき事と今やっている事、やりたい事が一致するからだと言われています。

例えば、山の知識がない人が山の中で一晩過ごすことになればパニックですが、山を知り尽くしている人には落ち着きがあります。

知識はすでにあったもので、誰か人が作り出せるようなものではありません。私たちは知識を発見しているだけです。

discover「発見する」という単語は文字通りの意味は「カバーを外す」ですが、ちょうどカバーを外すように無知を払い、最初からそこにあった知識を発見します。

ヴェーダは様々な分野の知識体です。アーユルヴェーダは生命にまつわる知識です。

無知という暗闇を追い払い、生徒の考えに知識の明かりを灯す人のことを先生と呼びます。