私たちは、山並みや星空や真っ赤に染まる夕焼けなどの自然物を見ている時、それらに対してこうであって欲しい、こうでないで欲しいといった種類の要求はありません。

ありのままを受け入れています。

しかし、自分や家族、毎日関わる上司や部下などについては、こうであって欲しい、こうでないで欲しい、といった要求があります。

ありのままを受け入れることができません。

自分の過去についても、父親が無関心な人でなければ良かったのに、母親にもっと理解があったなら、良い家庭に生まれていたら、良い教育を受けられていたら、こうして欲しかった、してもらえなかった、されてしまった…

自分の性格、足の長さや鼻のつき方までも批判します。

自然物をそのまま受け入れるようには、自分自身を受け入れることが出来ません。

しかし、起こってしまった事は変えることは出来ません。

過去の経験や生い立ちから成るそれぞれの世界の捉え方や反応の仕方は変えることが出来ません。

心理学の法則があるように、そこには秩序があり、なるべくしてそうなっているのですから、

頑張ってポジティブシンキングしようとしたり、逆に自己批判をする必要もありません。

しかし、いつまでも過去に振り回され続けて、周りにまで批判を向けてしまうようでは困ります。

誰もが子供時代に経験した痛みや悲しみからコンプレックスが作られ、大人になった今でもそれに支配され、痛みに触れるような場面に出くわすと反射的に怒ったり、悲しんだりして、ついついやらかしてしまいます。

特に家族に対しては、自分を受け入れてくれているという信頼があってリラックスしているので、何かをきっかけに過去の未解決の感情が溢れ出すと、ついぶつけてしまいがちですが、これは良くありません。

普段は潜在意識にしまわれているような未解決の感情を現して、周囲にぶつけることなく自分自身をケアします。

自分が自分自身に対する良き理解者であり、まるでセラピストや親のように自分の中にいる子供だった頃の自分をケアします。

誰もが子供の頃は無知で自分で生きて行くための手段を持っていなかったので、親やそれに代わる人に自分を無防備に委ねますが、

親や周囲の大人の振る舞いに傷つき、悲しみ、恐れを感じます。そうして、傷ついた子供の物事の捉え方や反応の仕方が作られます。ここで、この子供は何も悪くはないということです。

問題なのは、大人や社会なのに、その子供が大人になると自分の反応の仕方を批判してしまいます。

例えば、こんなふうに考えてみてはいかがでしょうか、肉体はこの物理的な世界と交わるための場所であり、考えは道具です。

私たちはそれぞれ癖のある道具を持っています。とても独特で同じものは一つもありません。

ハンドルが錆びついて曲がっている古い自転車があったとして、持ち主は自転車の癖を十分に理解しているのでまっすぐに走ることができます。他の誰かが乗ったらまっすぐには走れません。

自分の考えの癖をよくよく知り尽くして、一歩引き下がります。考えという道具に使われるのではなく、その道具を使うご主人になるつもりで客観的な視点を保ちます。

そうして、私だけではなく他の全ての人にも過去のバックグラウンドがあることが理解されます。

彼がそう振る舞うのには何かしらの事情があり、そして、その態度に反応してしまうの自分にもバックグラウンドがあるという事実を、山や海などの自然物をありのままに受け入れている時と同じように受け入れます。

彼や彼女に対して、自分自身に対して、一歩だけではなく、二歩引き下がることができます。そうして、過去から自由になります。