人が人生で求めることは人の数だけ千差万別あるように見えますが、ヴェーダ(知識体)では人が求めることを4つに集約して私たちに教えてくれます。

なぜなら、このことを自分のこととして自覚しておく事は、その人が人生を有益に過ごすためにとても大切だからです。

1、アルタ 安心

2、カーマ 喜び

3、ダルマ 秩序

4、モークシャ 自由

1つ目のアルタは、人に安心を叶えてくれそうなもの

例えば、地位、名声、財産、成功、資格、保険、健康、家族、マイホーム…

2つ目のカーマは、人に喜びを叶えてくれそうなもの

例えば、海外旅行へ行く、美味しいものを食べる、音楽を聴く、動物や植物を育てる、子供を持つ、美的な喜び…

3つ目のダルマは秩序、あるべき姿のこと

宇宙は様々な法則によって秩序(あるべき姿)が保たれています。

物理学、生理学、生物学、生態学、医学、心理学、経済学、天文学、文法…専門分野の数だけ法則が見つかっています。

それでも人類が発見した法則は、全体宇宙からすればごくごくわずかなエリアしか明かすことができていません。

そんな無数の法則が互いに矛盾することなく働いて宇宙全体の秩序は保たれている、とヴェーダは教えます。

 

小宇宙である私たちの体や考えにも余すところなく秩序が働いています。

例え、巨万の富と権力を得た王様であっても、ビルの3階から飛び降りたら重力の法則によって骨折します。

誰も法則からはみ出すことはできません。

人々の行いの結果はその人が望むものであろうと望まざるものであろうと、法則が平等に返します。私は間違える事がよくあるので、その度にアタフタとうろたえていますが、法則は決して間違えません。

 

例えば「嘘をつくと良心が痛む」と言いますが、それは良心という形で人の考えに働いているダルマの一つだとヴェーダは教えます。

ダルマに反すること「嘘をつくこと」で実る結果「罪悪感」はすぐに返ってくる結果と言えるでしょう。また時間が経ってから返ってくる結果もあるでしょう。

逆に、自分の知識や技術が人の役に立てた時、親切をして感謝された時、思いやりや優しさで満たされた時の心地よさはダルマと調和した時にもたらされる結果です。

ダルマに調和すると心地よいというのは、その行いが私たちのあるべき姿だからなのです。

一見、個人の考えには嘘をつくことで得をするように見えるので嘘をつくのですが、私たちの考えにあられた秩序であるダルマを無視してまで個人の安全の追求をすることは、実は個人の安全を失っていることになるのです。

ですから、ダルマに調和した方法で安全や喜びの追求をするようにヴェーダは教えています。ダルマに調和した選択のこともダルマと呼びます。

 

私達は個人の安全や喜びの追求に夢中になりがちですが、そもそも全体の秩序や調和が保たれていなければ個人の安全や喜びはないということを忘れがちです。

もし戦争の国に生まれたら、地球環境が破壊されたら…当然、個人の安全や喜びの追求どころではありません。ですから、ダルマ(秩序)があってこそ、アルタ(安全)、カーマ(喜び)も叶うのです。

 

個人に与えられた役割を全うすることで全体の調和に参加して秩序を保つことから、役割や義務のこともダルマと呼ばれます。

私の先生はこんなお話をされていました。

母親は子供の泣き声を聞くと、駆け寄って介抱します。子供の泣き声を無視すると母親の心が痛むからです。ダルマを無視すると母親は自分の心が痛いので、その痛みを取り除きたいのです。役割を全うすることは子供のためではなく、母親自身の為なのです。

「こんだけしてやったのに!」なんて恩着せがましい事を言うのはお門違いなのです。役割を全うすることはダルマです。ダルマを果たす事がアルタやカーマに繋がっています。

 

ところで、人間には自由意志があります。動物は本能のままにしか生きられません。

例えば、アメリカでこんなことがありました。お店の前に繋がれていたロバが、後ろにきた人を蹴って怪我をさせました。怪我をさせられた人はロバを訴えるでしょうか?いいえ、飼い主を訴えます。

ロバの目は真後ろが見えないので、後ろに誰かがくると怖くて蹴る習性がります。ロバは習性通りに反応しただけです。人間には自由意志があるので、選択肢があります。

ダルマと調和する選択もできるし、不調和な選択もできます。自由意志を持たされているのが人間だとヴェーダは言います。

例えば、自由意志を乱用して地球環境を破壊することも、自由意志で地球環境を改善することができるのも人間です。ですから、自由意志を使ってダルマと調和する選択をすることが人間としての役割・ダルマなのだということです。

 

4つ目のモークシャは自由。ヴェーダの最後の部分で教えられる知識のこと。

何からの自由でしょうか?限られた自分(個人)という観念からの自由です。それは観念なのです。ヴェーダの最後の章では、私とは何か、宇宙とは何かを教えます。そしてその答えは「全体があなた」です。

この体や考えだけが私なら、全てにおいて限りがあります。財産に限りがあり、若さや健康に限りがあり、知識や技術に限りがあります…

限られた存在である私たちは、安全を叶えてくれそうな何かを得て、何かになって安全を得ようとします。それはつまり、自分は「安全ではない」という結論を持っているという事です。

その結論からの自由がモークシャです。

例えば、足を骨折して松葉杖をついている人は松葉杖があって安全な自分を求めているのでしょうか?違いますね。松葉杖が無くても大丈夫な自分を求めています。

誰もが100%の自己受容を求めているのです。

モークシャは何か特別な体験ではなく、純粋に知識です。