アートマナストゥ カーマーヤ サルバム プリヤム バヴァティ

 

赤ちゃんが母親のお腹の中にいる時、へその緒で繋がれていて、栄養が届けられています。

赤ちゃんは、自分と自分以外のものが分かれていない(唯一無二)、完全に満たされている状態です。

お腹から出てきて、へその緒が切られてから、空腹感という痛みが起こり、その空腹感を満たしてくれる存在を認識し始めます。

空腹感が起こる場所が自分で、それを満たす存在が母親です。

完全に満たされている状態(分かれていない状態)から、世界は2つに分かれました。

かつてのように完全に満たされていた状態を求めて、それを叶えてくれる存在である母親を求めます。

母親がいなければ生きていけない、無防備な赤ちゃんは母親に全てを委ねています。

母親と離されることは、赤ちゃんにとってそれはそれは恐ろしいことです。

だんだんと父親の存在も認識し始め、自分と母親と父親で世界は3つに分かれます。

家族が世界の全てになります。

もう少し成長すると、家族以外にも世界があることを認識し始めます。

町内には他の家庭やお店があって、世界が少しづつ広がっていきます。

小学校に入り、中学、高校へと進みながら、どんどんと世界は広がっていきます。

多くのことを知れば知るほどに世界は広がっていくけれど、それに対して自分はどんどん小さくなっていきます。

 

赤ちゃんが母親を求めるのと同じように、人は満たされたくて「行い」をします。

目的がなければ「行い」はできません。

自分自身のために、全ての「行い」をします。

かつて母親を求めていたように、自分を満たしてくれそうなものを追い求め続けます。

母親から、アイドルや恋人や子供と対象を変えながら

ある人にとって自分を満たしてくれるものはお金かもしれませんし、名誉や功績かもしれません。

何であれ、人は満たされるために「行い」をします。

お金そのものが欲しいのではなく、お金を持って「満たされている自分」が欲しいのです。

子供の世話をすることも、旦那さんを愛することだって、

全ては自分自身が満たされたいからやっているのです。

子供や家族が不幸では、どうして自分が幸せになれるでしょうか。

「あなたのために、こんなにしてあげたのに…」そんな風に言いがちですが

どんな「行い」も、自分が満たされたくてやっていると知ったらなら、

「行い」の全ては有意義になりますし、不平不満の種は取り除けるでしょう。

 

人は満たされたくて「行い」をするけれど、

「行い」では決して満たされないと教えるのがヴェーダーンタです。

自分自身に対する見方が変わらない限り、何を付け足しても差し引いても同じなのです。

すでに満たされていることを知らないので、

自分自身とは何か、世界とは何かを正しく「知る」、「理解」するために

伝統的な方法で、正しい知識を教えつぐ先生がいます。

先生からの教えを学びながら、少しづつ考えは整います。

「行い」は考えの成長のための道具・手段となり、その理解を助けます。

日常生活の全て、子育ても仕事も家庭生活もヨーガの意味に変わります。