ヴェーダーンタ勉強会の報告

5年前から、国立のヨガ友達4人と共にゆるゆると続けてきたヴェーダーンタ勉強会ですが、新たにヴァニデヴィさんを迎え、新しい仲間も3人加わりリフレッシュしました。

ヴェーダーンタって何?と思われる方がほとんどだと思いますが、ウィキペディアなどで検索しても誤解を招きますから、ヴェーダーンタの先生のクラスに出て、直接お話を聞いてみてくださいね。

勉強会では、ヴェーダーンタの先生のもとで勉強をしている生徒同士でサンスクリット語やスワミダヤーナンダサラッスヴァティのパブリックトークを読み進めています。

今回の話題は、「知的に生きることと客観的であることは切り離せない」という話題でした。

IQが高い人でも犯罪を犯す人がいます。「知的に生きる」というのは、単純に高学歴であるとかビジネスで成功しているということとは関係がありません。

私たちは生きている限り、世界と関わることは避けられません。
そして、世界との関わり方をより知的に選ぶことができます。

私たちの誰もが考え(記憶)を通して世界を見ています。
とても主観的に色眼鏡や偏見を持って物事を認識しています。

アメリカ人はこうに違いない…
◯◯政党を支持する人はこういうタイプだ…
若い人はこんな感じだろう…
◯◯宗教はこんなだろう…
こういう趣味の人はこんなタイプだろう…
あの人は私のことをこう思っているだろう…

目の前の物事に、自分の過去の経験や記憶、生い立ちやトラウマを重ね合わせて見ています。
「あるがままのもの」を見ているのではなく、事実に重ね合わせた「自分の考え」を見ているのです。

同じ一つのものを見ていても、持つ印象や感想、反応の仕方は人それぞれです。
それぞれが見たいように世界を見ています。
お互いがお互いのことを色眼鏡を通して見ています。

それに、個人の視野には限りがあるので物事を100%理解しているわけではなく、一つの側面しか見えていないのです。

あたかも彼や彼女の態度や振る舞いが無礼に感じたとしても、彼がそう振る舞うには事情(バックグラウンド)があります。その日の体調かもしれないし、生い立ちや経済状況など、何であれ彼にはそう振る舞う事情があるのです。彼の態度を無礼だと感じた受け取り手に彼の全てのバックグラウンドは見えません。

そして、受け取り手の方だって過剰に傷ついたり、激怒したり、過去の経験からくるものの見方によって反応しています。相手は正反対のことを思っているかもしれないのに…

例えば、お医者さんは医学の知識があるので、患者さんの症状を見て様々な処置を考えられますが、医学の知識のない人が症状を見ても病気とすら気がつかないかもしれません。

様々な分野の専門家にしか気がつけないエリアがありますが、どんな人にも全てを知ることはできません。最先端の物理学の専門家が音楽のエリアでは無知なように。

誰もが限りのある考えを通して世界と関わっていることを知るだけでも、そこには客観性が生まれます。

自分も、相手も、誰もが主観的に世界と関わり、反応しているということを知ったならば、少しの「ゆとり」が生まれます。

彼や彼女の振る舞いに対して、私の過去の経験から作られた癖のある考えが過剰に反応している…

一呼吸おいて、
その場を離れて、
紙に書きなぐったり、
友達に話したり、
穴に向かって叫んだり…

歯を食いしばって、やせ我慢をするのではなく、理解からくる客観的なゆとりがあれば、より調和的な世界との関わり方を選べるかもしれません。

感情や気分の色づきのままに反応して、人に迷惑をかけたり、傷つけたりすれば、状況は悪化し、気まずさや不快感、後ろめたさとして必ず本人に返ってきます。それはその人の心を蝕みます。

私は、彼や彼女がそう振る舞う自由を与えます。
そうすることで、私は私の考えからの自由を得ます。

自分と深く関わりのある人には期待があるので、こうであってほしい、こうでないでほしいといった強い要求が生まれます。

人は人を変えることができないというのが真実なのに、変えられないものを変えようとして時間を無駄にします。変えられないことに絶望や欲求不満を持ち、ストレスとなります。

自分に全く無関係の人には、何の要求もありません。あるがままの姿を受け入れます。
ちょうど山や川、花や木などの自然物を眺めているのと同様に…

私は、考えの決めつけによって世界を見ていないか?
ちょうど山や星空を眺める時と同じように、ありのままの姿をそのまま受け止めているか?

一番身近な人に対して、そんな風に見ていく練習をすると、考えにゆとりが生まれ、考えの風通しが良くなるそうですよ。

客観的であればあるほど、リラックスがあり、真実に近づく。
今回の話題では、そんな教えを思い出しました〜