ジャパ瞑想

スワミダヤーナンダサラッスヴァティ 著  やのちさと 翻訳版(ありがとう⭐️)

ジャパの意味



ジャパは瞑想の間中ずっと、一つの言葉や短い文章を反復することです。jaという文字は、生死のサイクルを終わらせることを意味し、paという文字は、全ての妨げや、汚れを除くことをや破壊することを意味します。ですから、ジャパはモークシャと呼ばれる自由のための間接的な道具です。知識に対する様々な障害を破壊し、自由への道を整えます。その時ジャパは、単なるテクニックや訓練以上のものになります。

予測不能な思考

いつの時も、たった一つの考えがあります。次に起こる考えは誰にも分かりません。しかし、次の考えが起こる時、ある理論によって考えが起こります。考えの連鎖の中で、前の考えとの何かしらの繋がりなしに、今の考えはありません。この繋がりは薄っぺらく、またはとても明確で、理論的である場合もあります。しかし、考えそのものは決して予想がつきません。

今も、私が何を言うかが予測できません。私は単にジャパについて話すといい、始めました。私が今話していることでさえ、私には知られていませんでした。何を言うか予想ができませんが、それが実際に起こる時、それには裏打ち、つまり理由があるんです。

考えのパターン

あなたが道路でBMWを見て、そしてそれがあなたの注意を引くと思ってください。次に何を思いますか?
「どうして彼にそんな余裕があるのか?」
次に、
「どのようにして彼は、そんなに高い車を手に入れるのだろう?去年彼は仕事すらついていなかった。彼の奥さんがたくさんお金を持っているにちがいない。私の奥さんもお金持ちだったら良かったのに。結婚当初はお金のことや将来のことは考えなかった…(笑)

これら全ての考えはBMWを見ることに始まり、ある一定の道理に従います。この独自の連鎖は単なる一線上の考えです。

違う視点からBMWを見てみましょう。

「ドイツ人は本当に勤勉です。彼らの国は第2次世界大戦の中で荒廃しましたが、彼らの経済はすぐに立ち直りました。彼らは世界で最高の科学機器を生産します。」

どこから始まりましたか?BMWからです。BMWの後に、何が来るかは誰にもわからないことです。意図的な考え方でさえ、いつもライン上に考えがあるので、つまり、一度にワンステップ、つまり一度に一つの考えが起こるので、次に何が来るかはわかりません。考えと考えの関係は文章の中の理論的なものでもありえますし、あるいは、簡単な繋がりのいずれかでありえます。しかし、強かれ弱かれ、いつも繋がりがあります。


BMWを考える中で、考えの間の繋がりは、意図的なものではありません。ですから、次の考えはなんでもありえます。「BMWのエンブレムは独特です。それはメルセデスのエンブレムのようではありません。」メルセデスのマークは星を思い起こさせ、そして次はこうです、「私の占星術のサインは、よくない」1つの考えから、次の考えへのこの動きはぼんやりした考えです。これらの考えの中には方向性はありません。

ぼんやりした考えの中で、方向性はありませんが、ある理論、ある繋がりは常にあります。それは単純な韻で、一方の言葉があなたに別の言葉を思い出させるかもしれませんし、もしくは別の種類の可能性のある繋がりかもしれません。一つの変わらないことは、思考の中に、一つもしくは別の考えが常にあるということです。


ちょうど意図的な考えの場合のように、または、ぼんやりとした考えでも、次に起こる考えは分かりません。しかし、ジャパにおいては次に何が来るかは確かに分かっています。ジャパは一つの言葉や短いセンテンス、ヴェーダの一節でありえます。しかし、ジャパであるためには、それを繰り返さねばなりません。

もし誰かが一つの言葉、またはセンテンスを繰り返しているのならば、本筋を外れた時、そのことはその人に明らかです。BMWの考えの中では、ドイツのことを考え、メルセデスや他の何かのことを考えることは本筋から外れたわけではありません。なぜなら、本筋がないのですから。そのような考えは、ただただ起こります。これはぼんやりとした考えが意味するものです。道筋がないのです。


考えについて学ぶこと

私たちには、思考について知る方法が本当にありません。独特な考えにさらされているということを、知っているだけです。例えば、何かが私たちの注意を引くまでは、空想にふけります。そしてその時だけ、引き戻されます。


私たちの日常生活である、日常の考えにおいて、私たちの考え方を理解することを助けるものは何かありますか?ある一定の時間、考えを導く方法や考えを自由に扱う方法を学ぶことを助けるために、私たちは何を持っているでしょうか?

私達は教えられたテクニックを持っていません。もし私たちがラッキーだったら、私たちに論理的に考える能力を与えてくれた学校で、ある知性的な規律を得ていたでしょう。その過程で、ある規律を発見したかもしれませんが、私たちはそれがテクニックであるとは知りませんし、それをテクニックとして使っていません。

テクニックとしてのジャパ

ジャパの中で、選ぶことの訓練はとても重要です。ある言葉やセンテンスをある一定の時間心の中で唱えると決めたとしましょう。何が次に来るかは正確に分かっていますから、テクニックを使い、私は考えに何が起こるかを知ることができます。何か他のものが現れるなら、これが期待されたものではないことを知っているので、選んだ考えを戻します。プロセスの中で、私は望まれていない考えを退け、選んだ考えを保つ方法を学びます。これはテクニックとしてのジャパの重要な成果でもあります。

テクニックとして、どんな言葉も働きます。イーシュワラの名前やスピリチュアルなマントラは必要としません。どんな音もマントラと成り得ます。「グリン、グリン、グリン、グリン、グリン」のように。この音を繰り返し続けるなら、それは働きます。やがて外側からの考えが起こり、「この音はなんだろう?」「バグパイプ」と答えるかもしれません。それからあなたは尋ねるかもしれません。「バグパイプは、私のジャパと何の関係があるのだろう?」また音に戻り、バグパイプという考えは退けられます。

このように、繰り返すことは、ある考えの規律性を得るためのテクニックとして働きます。つまり、あなたは、自分の考えを観察する機会をあなた自身に与えます。けれども意味合いを持つチャンティングのジャパはあなたの中にベーシックパーソンをもたらします。ジャパをしている間は、あなたはそういう人でなければなりません。

考えと考えの間の隙間


繰り返すことのメリットは、二つの続く考えの間にある隙間を認識できることです。方向性の持たないぼんやりとした思考は、単に一つの考えから、もう一つへ移り変わります。そういった考えは麺を箸でつかむようなものです。麺を一本つかもうとしても、他にも数本一緒についてきていることがわかるでしょう。同じように、たくさんの考えがあるにもかかわらず、全ての考えが「まるで一つの考えのようになります。

二つの考えの間に隙間があります。BMWは車の名前で、ドイツは国の名前です。この二つには関連性がありますから、スペースは見逃されます。チャンティングを繰り返すことは、二つの考えの関連性を取り除いたり、意図的に回避します。チャンティングとチャンティングの間には関わりがないですから。

それぞれのチャンティングはそれ自体で完璧です。2つの考えは同じものなので、一つの塊は次の考えの塊と関わりを持ちません。このように、チャンティングの間にはピリオドがあります。チャンティング…、ピリオド…、チャンティング…、ピリオド…。コンマではなく、ピリオドだけです。完全な終止符です。ですから、それぞれのチャンティングは完全で、チャンティングの間に、スペースがあなたによって確認され得ます。


考えの平静さ

チャンティングの間に起こるものはなんでしょうか?ある形と音を伴う一つの考えと、次の考えの間に、考えはありません。形のない、隙間だけがあります。これが私たちの沈黙や平静さと呼ぶものです。この沈黙には、これといった考えの形はないので、私たちが知ってるように、考えはありません。

私たちはいつも、平静さとは何か手に入れなければならないものだと、考えています。人々は、それを求めさえします。「スワミジ、私は心の平静災害は全て持ち合わせています。どうしたら平静さを得られますか?」考えが落ち着かないので、私たちは平静さとは、何か手に入れなければならない新しいものや、それによって考えをきれいにするものであると考えています。平静さは私たちが手に入れなければならないものでしょうか?それとも自然なものですか?

私はかつて、あるスワミのもとを訪ねました。彼は彼自身といて幸せだと私は感じました。私はヴェーダーンタにコミットしていましたが、たくさんの葛藤がりました。私はそれらを解決しようと試みて、このスワミのもとを訪ねたのです。彼は多くは語りませんでしたが、胸に刺さることを一つ、私に言いました。「落ち着きなくあるために、あなたはたくさんお努力をしなければなりません。平静であるために何をする必要がありますか?」こう言って彼は黙り込みました。そして、私はとても感銘を受けました。

落ち着きのなさは積み重ねが必要


平静さのためには何をすべきでしょう?「落ち着きのなさ」のためにあなたは努力をしなければなりません。つまり、積み重ねを作る必要があります。なぜなら、それなしには、あなたは決して「落ち着きのなさ」は得られません。問題は、これは私たちが意図的にすることではないということです。それは、壁がひとりでに作り出されるように積み重なります。あなたが大量のレンガを持っていて、それらがひとりでに壁を作り出すとしましょう。あなたはそれを奇跡と思うでしょう。しかし、あなたは「考えが築き上がること」は奇跡とは思いません。なぜなら、それは常に起こっているからです。それは、ただただ起こるのですから、奇跡です。それは勝手に積み重なり、あなたは何一つ口を出しません。それは実に驚くべきことです。


この「考えの積み重ね」という自動的なプログラムにおいて、私たちは無力です。何かが積み重ねを引き起こします。それには単にホルモンバランスの変化や、消化不良、誰かの様子、眉をひそめる様、天気の移り変わり、その他たくさんの出来事であり得ます。どんなことも十分です。あなたが髪をとかすと、何本かの髪の毛が抜けるでしょう!あなたが受け入れがたい様々な出来事がそれを始めさせ、あなたの考えは一日中忙しいのです。

「落ち着きのなさ」は、積み重ねを必要とします。そして私自身は、それに関わっていません。それでも、「その積み重ね」は私のものです。私自身ではない、とは見ません。私は、「考えの積み重ね」である、怒りそのものが私自身であるとみなします。(「怒り」は考えの自動的なプログラムでしかないのに…)

なぜ一つ一つの考えの積み重ねを追うことができないのでしょう?なぜなら、これは考えの習慣が、麺をすくったら一本ではなく、何本かついてくるのと同じで、連想の特徴があり、方向性のない考え方のためです。(インドの麺は、日本のうどんとは違って、こんがらがって塊になっている)

考えの始まり

私が一般的なアドヴァイスをしたとしましょう。「(落ち着きを得るために、)この種の考えが積み重なるのを、止めなさい。つぼみのうちに摘み取りなさい。」つぼみなど無いので、行うよりも言うことは簡単でしょう。考えは最初に花として現れます。それに気づく頃には、巨大なジャングルです。芽を出してすぐに摘まれるような何かではないのです。

そのような考えのまさしく始まりは私との関係です。それなしに考えが始まったりしません。私と関係づいた、この自動的な考え方はなんの由来もありません。私たちは、それは子供の頃に由来するとか、両親から受け継いだと言うかもしれません。そして、それは両親も両親から、その両親も彼らの両親から受け継いだことを意味しています。もし、そうであるなら、この種の考え方に、本当の始まりはありません。ある一定の時に作られたものではないのです。

私と関係づいているので、疑うまでもなく、私が最初の考えに気づいています。なぜなら、私は最初に考えそのものに持って行かれますから。私はまさしく、その考えになり、その考えは私になります。

ですから、「つぼみのうちに摘み取りなさい」というアバイスは意味がありません。ただコンプレックスを作り出すだけです。「摘み取れないのは、私が駄目だからだ。」このような考えは、ただ罪悪感を積み上げるだけです。それでは、何ができるでしょうか?

考えのための働き

私は連続した考えが破壊される、意味のある動きを、考えに与えることができます。連続した考えの間にある隙間は、自分自身についての偉大な真実を解き明かすことができるのです。私は考えと考えの間にある静寂です。

論理上、私たちは落ち着きのなさが、どのように積み重ねを必要とするかが分かります。一方、平静さは私の本質であるがゆえに、何もする必要がないのです。私は平静さを作り出すことができません。私はただ落ち着きのなさを作り出します。


ジャパにおいて、私は、考えを意図的に作り出します。私は意図を持っているので、選択することができます。このように、私はある一つの考えの作者になります。私が選ぶことで、特定の考えを作り出します。一方、続いて起こる静寂は、私によって作られるものではありません。実際、静寂は全ての考えを支えています。

パンチャダシという本の中で、「考え」は照らされたステージ上の、「ダンサー」に例えられます。ダンサーは愛、無力感、怒り、冷酷、驚き、恐怖といった、様々な美的感情を描写します。ステージ上の「ライト」はダンサーである彼女のムードやそれに関わる変化を照らします。彼女が立ち去ると、空のステージに光がさします。ダンサーは多様なダンスをするかもしれないし、ステージに全くいないかもしれませんが、それでもライトはダンサーに影響されずに、ただ留まります。あくまでも照らしているだけです。

ライトそのものは、行い手ではなく、ましてやダンスを楽しむ人でもありません。一つの仕事としてステージを照らしたりしません。光の本質は、明かりを灯すことです。そして、それは明かりを灯します。「灯す」という動詞は、ライトの側に動機や、行動を伴いません。ですから、ライトは行い手という観念を持ちません。同じように、私が一つの考えを持っていて、その考えが去る時、残るものは静寂です。それは、ダンサーのいない空のステージに例えられます。


考えと静寂の本質 


一般的には、考えの欠如のことを静寂といって、何か成し遂げられるべきものと思われています。考えは訓練によって呼吸を制御するような、外側の手段で押さえつけ、黙らせられます。息を止めている時、あなたは考えることができません。やってみてください。鼻を押さえ、考えようとしてみてください。できないでしょう。あなたの考えは呼吸をしたい!ということだけでいっぱいです。

しかしここで、私たちが知りたいことは、考えの欠如についてではなく、静寂と考えの本質についての理解です。ですから、全てのアプローチは認識されます。考えは時々、わたしの許可なく起こり、そして時々私の許可によって起こります。ジャパにおいて私の考えは意図的です。それは、私の許可によって起こります。考え(マントラ)が去る時、考えがないことを静寂の本質として私は理解するのです。

私は静寂です


二つの考えの間に私が経験すること、気づいていることは、静寂があるということです。全ての考えの後に、静寂を見るのであれば、私は自分自身のことを考えとみるべきですか?それとも、自分自身を静寂であるとみるべきでしょうか?考えは起こり、そしてなくなります。考えが起こる前に私は静寂です。そして考えが去った後、私は静寂です。私は最初静寂で、最後も静寂です。つまり、考えがあるにも関わらず、私が静寂であることを意味します。

ジャパの練習をするだけでは、このことについての理解はありえません。しかし、ジャパをすることにより、理解される何かが明確になる状況を作ります。考えがあるにも関わらず、私は静寂であるということを実際に体験します。


ジャパは考えの芽を摘み取るのを助けます


ジャパをすることによって、あなたは考えの芽を摘み取ることを学ぶでしょう。ちょうど、あなたが毒のあるウルシを見たら、それを放っておいて、成長させないように、同じように考えと考えの間の隙間に気づくことにより、考えをつぼみのうちに摘み取る能力を得ます。

「BMWの考えにおいて、あなたは次の考えにしがみつき、前のものを手放します。そしてまた、次の考えにしがみつき、前のものを手放します。こんなふうに最初のなかなか消えない考えが、あなたを、次の考えに繋げます。この繋がりが BMWからドイツへと移るプロセスを引き起こします。ドイツは第二次世界停戦へ、第二次世界大戦は真珠湾へ、そして真珠湾はハワイへとあなたを連れていきます。ハワイはあなたをビーチに連れて行きます。ビーチはメラノーマ(シミ、そばかす)へと連れて行き、あなたは悲しくなります。

これは考えのごく正常な動き方です。あなたに、一つの考えがあるなら、前の考えは去っていることを意味します。なぜなら、二つの考えは互いに関わることがなく、多少の繋がりがあるだけです。このようなことから、あなたはよく、会話がどこから始まったのかわからなくなります。

ぐるぐる回る考えをとどめておけないことが、あなたがどこから会話が始まったのか分からなくなる理由です。会話はただ起こります。あなたは最初、国の外交政策について話し始めても、最終的には、宝くじについての話になるかもしれません。その間に、多くの他のトピックが起こります。それはコントロールができず、あなたは全てが、どのように起こったか知りません。関わりが薄ければ薄いほど、一つの考えともう一つの考えの関連付けは、より難しくなります。

私はこのタイプの考えをモンキーシンキングと言います。つまり、木から木へと飛ぶ猿のような考えです。一つの木は常緑樹かもしれないし、次はクスノキかもしれません。猿はただ、次から次へと移動するだけです。同じように、人の思考は考えから考えに飛び移り、考えをコントロールする方法がありません。この種の考えの連鎖の中で、人は考えと考えの間にあるギャップ、つまり隙間にたどり着くことができません。


チャンティングとチャンティングの間に存在する隙間

インドにはbetel nutと言われる実が採れる、びんろう樹の木があります。それは細長いココナッツの木のようで、先端が尖っていて繊維状になってます。その木を見て、あなたは登ったら折れると思うでしょう。しかしそうはなりません。この木に登って果実を採る人は、下まで降りて、別の木に登る必要はありません。その代わり、彼は体重をかけて木を曲げることで、隣の木を掴むことができます。このようにして、彼は隣の木を掴みます。そして彼は、木から木へ渡り、果実を集めます。庭の最後の木からか実を採った後にだけ、彼は地面に降ります。

これは一つの考えから、次の考えへ移るという考え方において、まさに私たちがしていることなのです。それはまるで、あなたは考えの上を歩き続け、決して地面に降りることはないかのようです。

ところがココナッツの木は決して曲がりません。ココナッツを集める人は、次の木に登る前に地面に降りなくてはなりません。ジャパも同じです。あなたはしばらく後ではなく、時間をかけずに、すぐに戻ってきます。あなたはチャンティングして、そして戻ります。チャンティング、、、戻る。チャンティング、、、戻る。チャンティング、、、戻る。この種のチャンティングにおいては、隙間に気づくことはチャンティングそのものと同じくらい重要です。なぜなら、それは、あなたの本質である静寂を明らかにする隙間なのですから。