今日、ヨーガクラスをしていて、ヴァガヴァッドギーターの勉強で、習ったことを思い出したので、整理するために、ちょこっと書きます。

 ヨーガでは、「私」とか「私の物」はない。と言います。

 ちょっと考えてみただけでも、私の物だらけです。
私の携帯、私の席、私の子供、私の特技、体、感覚器官、考え、、、

 私の物がないってどういうことだろう?

 それには、ヨーガの宇宙観が関係しています。

 ヨーガでは、個々が生きているというよりは、地球や宇宙といった全体が一つの大きな生き物であると見るので、「私=全体」という見方をします。これは、ヨーガの結論です。
 
 「私」と「私以外の物」があれば、「私の物」は成立しますが、「全てが私」で、「私」しかいないなら、私が所有できる対象物はないですよね。

 例えば、エコロジストは、森の中の草木や鳥やバクテリアといった個々が生きているのではなく、森全体が一つの生命体として調和を保って生きている。と見ます。
 
 美しい多種多様な生物は、独立して存在することはできない。森の中に生かされている。ということを知っています。

 土は草木の栄養になり、草木を栄養に動物が育ち、その動物の糞や死骸が土の養分になり、バクテリアが養分を分解し、…といったように循環しています。

 生態系という全体の調和が崩れれば、森の中で生かされているものは生きていけません。

 私たちの身体を例にとってみても、心臓や肺、腎臓、肝臓など、それぞれの特徴の違いをとって名前が幾つもあるので、それぞれが分かれているように見えるけれども、全体で一つの身体として機能を果たしているので、一つ一つの臓器が独立して存在できるわけではないですよね。

 体の中の一つの小さな細胞くんが、私が生きている!と言い張っても、体さんは「君は、私の中に生かされているんだよ」と言います。

 海には、大きな波、小さな波、さざ波、巻き波、白波といろんな名前や形はあるけれど、どの波も同じ一つの水、どの波をとってみても、海でないところなどないのです。

 ヨーガでは、個々が生きているのでは無く、全体で一つの大きな生き物として、宇宙や私を見るので、「私」というセンスは個人の身体や考えでは無く、全体を指します。

 宇宙全体という目線で考えるのは、大きすぎてリアリティが持ちにくいので、地球目線で考えてみます。

 地球の中で、私が独立して生きている(私と私以外の物という見方)ではなく、地球という大自然の摂理の中で生かされている私、そんな個人の私も含めて全体が一つの生き物(私=全体)と見た時、ものすごい「ゆとり」が生まれませんか?

 何かを得るということ、何かを失うということがありません。

 私の物、あなたの物、という見方はありません。

 身体も考えも、私個人の物ではない。地球の物。全体の物。

 私の富も名声も、特技や感性だって、いっときの間、個人の私に使い道は任されているけれど、地球から見たら、全ては地球の物。

 「私の家、服、体」と言い張るけれど、地球から見たら、「家」も「それを所有していると思っている個人の私」も全部含めて地球の物。

 地球から、いっときの間、任された全ての物を、私個人が私利私欲ではなく、全体の調和のために使うことができますように。
 
 それがヨーギーの祈りです。