人生の目的はなんですか?

ヴェーダは、人が人生で求めることは4つあると言います。

アルタ カーマ ダルマ モークシャ

一つ目のアルタは「安心・安全」

自分に安心・安全を叶えてくれそうなものを求めます。

ある人にとっては、「お金」かも知れません。また、ある人にとっては、マイホーム、保険、資格、キャリア、地位、名声…

ある程度の安心・安全が叶ったら、今度はカーマ「喜び」を求めます。

自分に喜びを叶えてくれそうなものが、ある人にとっては旅行や、美味しいものを食べることかも知れません、また別の人にとっては、音楽、美術、映画、クイズを解くなど知的な喜びもあるでしょう。

三つ目のダルマは、「秩序」です。

高いところから低いところへ水が流れていくように、季節が巡るように、冬は冬らしく寒いように

この宇宙を保っている様々な法則として認識できる、あるべき姿のことです。

私達の肉体や考えにも、地球や宇宙全体にも余すところなく法則が働いています。

個人の限りのある視野では、全ての法則を認識することができないので、まるで偶然に起こったことのように見えることでも、そこには必ず原因と結果を結ぶ法則が働いています。

法則は原因が複雑に絡み合っていても、気まぐれに結果を出したり、支離滅裂な結果を返したりはせず、正確に結果を返しますから、

どのくらいの角度でどのくらいの勢いでボールを投げたら、どこに着地するのか、法則を知っていれば結果を予測することができます。

同じように、人間は朝起きて夜寝るようにセットされているので、昼夜逆転の生活をしていれば、それ相応の結果がもたらされます。

私たちの考えにもダルマが働いています。

誰かに教わらなくても、いつの時代でも、どの国の人でも、学識があってもなくても、「自分がされたら嫌なことは、他人もされたくない」と知っています。

生き物を傷つけたり、嘘をついたり、盗んだりすることは、悪いことだとわかっているので、泥棒だって夜に人目につかないようにコソコソします。

ダルマは、秩序に従って為す正しい選択のことも意味します。

ダルマを守れば(例えば、思いやるのある行動をしたら)、心地よさや充足感としてすぐに結果が返ってきますが、ダルマを犯せば、罪悪感としてすぐに結果が返ってきます。

すぐに返ってくる結果と、後になって返ってくる結果、来世などずっと後で返ってくる結果があります。

何れにしても選択の結果は必す返されます。

धर्मो रक्षति रक्षितः
あなたがダルマを守る時、ダルマがあなたを守ります

ダルマは義務や役割と訳されることがありますが、そこにも秩序が働いているからです。

女性は女性として、男性は男性として、母親・父親として、妻、旦那として、先生、生徒としての役割があります。

例えば、先生のことをサンスクリット語ではグルと言いますが、「グ」は暗闇を意味し、「ル」は追い払う、取り除くという意味です。

無知は暗闇に例えられますので、生徒の考えに知識の明かりを灯し、無知を追い払うのが先生の意味です。

それぞれが文字通りの役割を全うする時、全体の秩序が保たれます。

それぞれが役割を放棄すれば、無秩序な結果が現れます。

人間には自由意志があるので、ダルマを選ぶことが求められています。

動物は本能通り、プログラム通りに生きているので、自由意志は有りませんが、人間には選択権が与えられているのです。

秩序の中で生かされている以上、秩序を求めるのは当然のことのように思えます。

全体の調和なしに個人の調和などあり得ないからです。

しかし、私たち個人は限りある存在なので、目の前のことに囚われて、秩序の中で生かされているということをすぐに忘れてしまいます。

ダルマを無視してでも、個人の安心や安全、束の間の喜びを叶えることに価値があるように見えてしまいます。

ダルマがあってこその安心や安全であることは、個人の私には見えないのです。

ですから、アルタやカーマを叶える時は、ダルマな方法でそれらを叶えるように教えられています。

ダルマの価値に気がついている人は、「ダルマを選択することができますように」とお祈りします。

祈りも行為なので、必ず結果をもたらします。

ダルマを選び続けることで、人は成熟します。人が成熟する為には、ダルマを選ぶ練習をしなければなりません。

そして、行いの結果は個人のお手柄ではなく、法則が結果を実らせているという認識で結果を受け取ります。

サマトヴァム ヨーガ ウッチャテー ヨーガは行いの結果を受け取る時の平静さです

行為をするか、しないか、するならどのようにするかの「選択」までは個人がしますが、その結果を出しているのは法則なのだという理解からくる心の姿勢のことです。

個人にとって良い結果であれ、悪い結果であれ、法則が働いて必然的な結果が返されているという受け取り方をします。

結果に対する執着のなさは、理解からくるものです。

プラサーダブッディ 全ての結果を神からのギフトとして受け取ります。

そんな成熟した人が、求める最後のゴールがモークシャと呼ばれる自由です。

何からの自由でしょう?

「限りのある自分」という観念からの自由です。

安心や安全を外側に求めていたけれども、お金や健康があって安心・安全なのではなく、それらがあってもなくても、自分自身が安心・安全そのものの意味なのだと知ることです。

自分自身の見方が変わらない限り、何かになっても、何かを得ても、決して満たされることはありません。

ヴェーダの結論は、あなたが全体です。

全宇宙として現れているのがあなたです。

何一つ、独立して存在するものなどなく

小さな個人の私の考えや体も含めて、全体で一つの生命体です。

モークシャは、盲目的に信じることではなく、理解することにより成し遂げられます。

バガヴァッドギーターなどの聖典を教える先生の言葉に熟考しながら、自分自身の中で腑に落ちるまで確かめ尽くし、日々の行いを通して考えをきれいに整えていく事で、理解される真実だと教えられています。

गुरुर्ब्रह्मा गुरुर्विष्णु र्गुरुर्देवो महेश्वरः

गुरु साक्षात परब्रह्मा तस्मै श्रीगुरवे नमः