自分なら、こういう時にこうする。

自分はこうやって成功した。

自分はこうやって努力してきた。

「自分なら◯◯」を、相手にもあてはめようとすると、自分にも相手にもストレスが生まれる。ということにハッと気がつきました。

家の中なら、お茶碗の洗い方から始まって、並べ方、選び方、買い物の仕方、野菜の切り方、食べ方…

社会に出たら、勉強の仕方、成績の上げ方、目上の人に対する態度、お礼の仕方、挨拶の仕方…

「自分だったらこうするのに、どうしてあの人はそれができないのだ…」

喧嘩やストレスの種は、いつもここから来ている気がする。

「最近の若いものは…」って、自分はこんなふうにしてきたものだ。という含みを感じさせるあの言葉も同じ。

時代も経験も立場も性格も、みんな違う境遇なのだから、自分のやり方や考え方を基準に相手を判断しても、自分がストレスになるだけではなく、相手にもいい迷惑。

 

私の先生はこんなふうにおっしゃっていました。

「彼や彼女に、そう振舞う自由を与えなさい。そうすれば、あなたがストレスからの自由を得ます。」

 

対人関係でストレスを感じた時、

「あなたは間違っている」と言い切るのではなく、

「私の考えを通してみると、あなたの態度や言動は間違っているように見えます。(もしかしたら、私が見えていないだけかもしれないけれど)」という言い方を選びます。

あなたがストレスを感じている相手である彼女は、彼女なりの事情があって、そう振る舞っているのです。

彼には彼にしか分からない事情があって、そんなふうに振舞います。

私には、彼や彼女のほんの一面しか見えていないので、彼の生い立ちや健康状態などの様々な事情の全ては見えていないので、態度に無礼さを感じたり、傷ついたりするけれど、彼や彼女にはそう振舞うだけの事情がただただあるのです。

 

私の主観において、どうしても許せない態度に見えたとしても、

彼や彼女は、私が受けた印象のようには、全く意図していないかもしれないのです。

私にはそう感じられるけど、他の人は同じようには受け取らないかもしれません。

私の考えの癖(コンプレックス)が反応して、そんなふうに受け取っています。

彼や彼女、私自身も含めて、誰の考えにも、過去の経験から作られてきた独特の物事の捉え方があります。

 

彼や彼女に対して客観的であるように、私の考えにも客観的になります。

一歩引き下がるだけでは不十分、二歩引き下がります。

 

私は、彼や彼女がそう振舞う自由を与えます。

そうして、私はストレスからの自由を得ます。