「執着」を辞書で引くと、

【ある物・事に強くひかれ、深く思い込んでどうしても忘れ切れないこと。主に悪い意味で使われる】

 今では、「こだわりの食材」など、こだわりの◯◯というと、良い意味で使われていますが、元々は「こだわる」ことは「執着」と同じに良くないことを意味していたようですね。

ヨーガでは、「執着を手放す」ことで考えが整理整頓され、人の情緒的な成熟には欠かせない要素として教えられています。

情緒的な成熟が、幸せになる(100%の自己受容)ための準備なのです。

「執着を手放す」と聞くと、例えば「お金を手放す」とか「豪華なものを手放す」など、持っているものを、やせ我慢して捨て去るようなイメージを持ちがちですが、実はそんな単純な意味ではありません。

「あるがままの物をあるがままに見られること」

私たちは、何かを見たり聞いたりする時に、それまでの経験や記憶を重ねて、あるがままのものに「上乗せ」をして見ています。

例えば、夜の庭先にある大きな石を見て、少年は石を「幽霊」と見間違えます。旦那さんの帰りを待つ妻は石を「旦那さん」と見間違えます。泥棒は「警察官」と見間違えます。

それぞれが、石に自分の考えを「上乗せ」して見ています。

結婚指輪を質屋に持って行った女性、質屋さんがつけた値段に彼女はひどく落胆させられました。なぜなら、彼女にとってその指輪には良き思い出と共に「上乗せされた」価値がありましたから…

彼女の「上乗せ」が取れた価値は、「あるがままの価値」です。

過剰に上乗せした価値が落ちて、あるがままの価値が見えると、やせ我慢しなくても自然にこだわりがなくなります。

「恋愛」はとてもわかりやすい例です。

恋愛をしている時は、理想の王子様やお姫様像を相手に重ねて見るので、相手の悪いところが一切見えません。悪いところすらも愛おしく感じられるほど盲目的ですが、結婚生活が始まり、恋が覚めるとどうでしょう…

あるがままの姿が見え始めます。あとはご想像にお任せします。笑

(あ、でも。坂本冬美さんが「また君に恋してる」って歌ってるね♪)

「執着」は「あるがままのものに価値を上乗せして見る」ことで、「執着を手放す」とは「過剰に上乗せした価値が落ちて、あるがままの価値が見えてくるので、あってもなくてもどちらでも良くなる」ことです。

執着のある時は「こうであるべき、これがなければ私は不幸、どうしても手に入れたい」といった強いコントロール欲求があります。

たいていの場合、世界は思うようにはいかないので、欲求不満が生まれ、怒りや妬み、憎しみ、過度の落胆へつながり、本人を苦しめます。

考えただけで、泣きたくなります…辛い。

 

アーユルヴェーダでは、持って生まれた性質(個性)は変えられないけど、それが偏らないようにバランスをとることができると教えています。そのことを知るだけでも、とても楽になります。

変えられるものと変えられないものの見極めができると、

変えられないものを変えようとして時間を無駄にすることなく、与えられた質(個性)との関係性を築きながら、有益な人生を送ることができます。

私によって体や考えの個性が知られています。その個性との付き合い方を教えているのがアーユルヴェーダなのではないかと思います。

 

話を戻して、執着が手放されている時というのは「それがあったら(叶ったら)嬉しいけど、無くても(叶わ無くても)まぁいっか…」といった具合に、「執着」ではなく、ただの「好み」に変わります。

私の先生は、「必需品」から「贅沢品」に変わると例えられていました。

 

みんな、自分に安心や安全、喜び、調和を叶えてくれそうなものや状況を求めています。

自分がする全ての行いは、自分の幸せのためにやっています。

世のため人のためにする行いも、最終的には自分の幸せのためなのです。

自分以外のものが不幸では、自分が幸せにはなれませんから。

なんであれ自分を幸せにしてくれそうなものに「上乗せした価値」を乗せることで「執着」が生まれます。

しかし、世界はドンドワ(二極)と言って、何かを得れば何かを失います。どんなものも一長一短、長所は欠点でもあり得ます。結婚すれば独身を失うように、理想的な状況を得ても完全に満たされることはありません。

(あくまで例え話ですよ…結婚が良いか悪いかいう論点ではないので誤解なく〜)

いろんなものや個性には、質の違いがあるだけであって、そこには優劣があるわけではないのです。

執着が薄まり、あるがままのものの価値が見え始めることで、価値構造が整い、考えが整理整頓されることを「アンタッカラナ シュッディー」と言います。

ヨーガは、考えを綺麗に整頓すること、あるがままのものをあるがままに見るための練習です。

色眼鏡を使うことなく、客観的に出来事を受け止めることができる考えの平静さ、平等さ、公平さ(シャマ)によって、行い(選択)をします。

 

私がヨガクラスでやっていることは、アーサナといって、ここでいうヨーガの意味や目的とは違います。「座法」と翻訳されるように、瞑想前の準備体操のようなもの、落ち着いて座れるために呼吸を整え、体の緊張をとります。

アーサナで、心身が健康になり日常生活の活力となりますように…。

それはそれなりの価値があります。何にでも、それ相応の価値があります。

あるがままの価値があります。価値がないわけではありません。

私はアーサナに執着してません。好きなだけです。あってもなくてもどっちでも良いです。というと無責任みたいだけど、クラスに来てくれる人やヨガが好きな人が好きなだけです。今の私のエネルギー源です。

アーユルヴェーダもアーサナヨーガも、成長のための一つのツール(手段)であり、それ自体が目的ではありません。

 

情緒的な成長のために、考えを整頓するという意味合いの「ヨーガ」は、ヴェーダーンタによって教えられています。

勉強会もやっていますが、こちらは純粋に知識です。

あるがままをあるがままに見るための知識。

私個人の考えでは全くなく、先生から生徒へと教え継がれている真実の知識です。

ヴェーダーンタは「What is」!だそうですよ。

めっちゃ楽しいです♪