金曜日の夜から、娘が発熱し家に篭ること3日目…
昨日は、私も一緒に昼寝をして、さらに夜も早く寝て、自分でもびっくりするくらい素晴らしく良く眠れたので、すっかり元気に。。。よし。
ここのところ、あっちゃこっちゃ考えが忙しかったので、娘に助けられました…
いつも、アクセル踏みまくりで突っ走りすぎてるなぁ〜という頃、帳尻を合わせるかのように、娘が風邪をひいてブレーキがかかります。
娘はというと、熱があるわりに元気で機嫌も悪くない…
熱が出ても、すぐには病院へ行かない派のママの助言を思い出して、今回は病院へ行かなかったけど、どうやら正解だったみたい。ほっ
3日目になって、だいぶ落ち着いてきました。とはいえ、まだ家から出られないから、今日は家の整理整頓でもするかぁ〜。
スッキリしたっ!ストレスも発散され、一石二鳥、安上がり。
家中のすべての引き出しとクローゼットは、後回しにするためにあるのだ…
後回しにし続けた、あらゆる物を整理したら、考えも整理できてきたぞ。
家の中は考えの状態を表しているんだ…なんて誰かが言っていたけども、
旦那さんの部屋に邪魔な物を置く癖は、私の考えの表れなのだろうか…(笑
旦那さんの部屋こそ!キレイに。キレイに。キレイに…と、思いつつも、つい。
スワミジが言ってたっけ、思いやりが持てないなら、まずはフリから始める…
そうしているうちに、それが自然な振る舞いになるから。
泳げない人が、泳ぐ練習をしないと泳げるようにはならないように。
自分だけじゃなく誰だって、優しくされたら嬉しい、傷つけられたくない…
ちっぽけで、ケチでセコい、自己中心的な私が、たとえフリであっても思いやりを行動に移すことで、自分自身を閉じ込め、苦しめていた、主観的でエゴイスティックな考えからの成長、自由がある。
あたかも、誰かのためにしていることだって、実は自分のためにしている。すべての行いは、自分の為にしている。自分の意味を知らないので、そんなふうには見えないけれど。もし自分以外のものがないというのが真実なら、与えても与えても失うものなど何もないのでは…
狭い狭い視野が少しずつ広がっていく…客観的であればあるほどに、心の穏やかさや落ち着き、そして安心感がある。十人十色、みんな求めているものは違って見えるけど、本当は一つのものを求めて生まれてきている。
これがあったら安心、これがなかったら安心、といった状況に頼らずに、自分自身を安心そのものの意味と理解したい。
例えば、脚を怪我している人は松葉杖があれば安全だと思いそれを求めるけれど、本当に求めているのは松葉杖ではなく、松葉杖に頼らなくても大丈夫な脚が欲しいわけで、それと似て、安心や安全を叶えてくれそうなモノや状況が欲しいのではなく、自分自身が満たされていると見たい。
人間は、客観的であれるという個性を持っている。
人間として生まれてきたのなら、目先の損得で状況に反応するのではなく、ダルマを選ぶことで全体の調和に参加することができる。
ダルマと調和することの心地よさが考えの曇りを取り除いてゆく。
曇りのない客観的で知性的な考えは、限りのない自由を得るのです。
そんなふうに、私の先生が話していました。
お家のように、掃除してもしても、たまっていく埃やガラクタ…
私の考えも、カルマヨーガで曇りを磨かないと…ですね。
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