クラニオセイクラルセラピー(以下クラニオ)をして、ヨガをして、考えたことを書きたくなって、書いてみました。
クラニオをすると、まず体液循環が良くなります。
体液とは、血液、リンパ液、脳骨髄液など身体の液体のこと
それに伴って、身体が温まり、呼吸は深まり、深いリラクゼーションを味わいます。
リラクゼーションを感じている時は、副交感神経が優位になっているため、筋肉が緩みます。
それまで緊張していた筋肉が緩み、一気に血流が巡るので、滞っていた箇所は特に、だるさや熱を感じることもあります。
内臓や脳も血液の循環が良くなり、疲労回復、老廃物の排泄、浄血作用があります。
そうしているうちに、精神的なバランスも取れ、落ち着きを取り戻します。
緊張は、精神的なものが先にあって、次に体に現れるという順番がほとんどですから、体の緊張が解ける過程で、精神的な開放感も味わうものです。
普段、私たちが抱えている小さな悩み、個人的なアレコレをどうにかしようとジタバタ、右往左往しているよりも、ヨガで呼吸を整え、太陽礼拝をして、最後にシャヴァーサナをしたら、なんて小さなことに囚われていたのか…と解き放たれる感覚を味わいます。
ヨガだけではなく、散歩して歩いたり、泳いだり、身体を動かすと、体液循環が良くなって、私たちの身体に備わっている、自然治癒力、自己調整力が働いて、心身のバランスが整います。
私がなんとかできる人、私が結果を出せる人だと思って緊張を作り出していたけれど、もっと大きな自然のうねりに運ばれてここまで来ていたのだ、私が生きているのではなく、生かされていたのだ…
そして私自身の所有物だと思ってきた、感覚、感情、意志、身体だってなんだって、自然が作り出したものなんだ…
それでも私たちの考えは頑固なもので、個人的なアレコレを叶えないことには、心の平安が得られないと信じて、どうにか外側の状況を変えようとアクセク、あれがダメなら今度はこっち、こっちがダメなら、あっち…と目的に向かってヒートアップします。
考えの働きとははそういうものなので、何も悪くはないのです。正常な機能です。
それに私たち個人は皆、幸せになりたいので、幸せを叶えてくれそうな状況を求めるのが本能です。そして、幸せになるべきなのです。追い求めることは何も悪くないのです。
私の先生が例えて話してくれましたが、会社へ行くのだって、お給料が欲しくて行くわけです。でも、本当はお給料が欲しいのではなく、給料をもらって、幸せを感じている自分が欲しいのです。
幸せを叶えてくれそうなものが、ある人にとってはお金かもしれない、別の人にとっては名声、地位、家族、美しさ、健康…人それぞれ求めているものは違って見えるけど、みんな幸せになりたい。
では、幸せとは何か?
健康や富など、状況に頼ったものだとしたら、それは必ず移り変わります。理想の状況は続かないし、大抵の場合、理想通りにはいきません。一時それが叶ったとしても、今度は失う恐れに変わり、今よりもっと、もっと幸せになれるはずと、更なる状況を追い求めます。
決して満足することはなく、一生を使い果たします。
幸せにしてくれそうな状況やモノが欲しいのではなく、幸せな自分が欲しいということ。
一時のものではなく、絶対的なものとして
自分を満たしてくれそうなモノが欲しいのではなく、満たされている自分が欲しい
外側の状況に頼らずに、自分自身が幸せそのものの意味と見たい。
何かを付け足して、満足な自分ではなく、何があってもなくても満たされている自分が欲しい。
知っていても知らなくても、皆それを求めて生まれてきている。とヨーガは教えます。
アーサナヨガや登山やサーフィン、クラニオだって、一時の満足です。
移り変わるものなのです。
でも、そこにはヒントがあります。
私たちに可能性を垣間見せてくれているのです。
私たちが、何かに頼らなくても、満たされている存在であるということを
体験として、そのことを味わえる瞬間なのです。
大笑いしている時、大自然を目の前に感動に震える時、美味しいモノを食べてとろけるよな感覚の時、アルコールや薬物をとって麻痺している時、その瞬間だけ自分が限りのある存在であるという制限が外れるので、個人の抱える悩みを忘れるので、幸せを感じているのです。
自分に対する見方、つまり自分自身の観念が外れた時に、私たちは幸せを感じているようです。
自分て、こんな人という観念とは、身長・体重・年齢・家柄・職業・性別…などのアイデンティティのこと
ヨーガでは、客観的な広い視野をもって、全体でたったひとつの生き物であるとこの宇宙や私の意味を見ます。
私の意味は全体なのです。
客観的に個人の自分に気がつけている、その視点をいつも大切にします。
客観的であればあるほどに、自分の意味は全体に置き換わります。
そして、それが本質的な私であり、移り変わることない幸せの意味になります。
これらは、気休めのポジティブシンキングやスピリチュアル系、ニューエイジ系のものではなく、ヨーガの故郷、ヴェーダの文化が教えついできた知識です。
ヴェーダとは知識体のこと、日本人なら聞いたことのあるアーユルヴェーダのヴェーダもそうですね。
理解されるべき事実なので、盲目的に思い込むことではありません。大学で学ぶことでもないし、本で独学できるものでもないです。
ヴェーダの文献を伝統の教えの中で学んだ先生から生徒へと教えてもらうことで、正しい理解がおこります。
ヴェーダを勉強してみたい人は、私の先生のクラスを是非 受けてみてくださいね!
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