アーユルヴェーダ 生活術
子どもを産んでから、体力が落ち、ホルモンバランスは崩れ、季節の変わり目には 決まってガタガタと音を立てるように崩れ落ちていたので、このままでは本当にまずい…。
ついに、私にもアーユルヴェーダの生活術を実践する時がやってきました!
前々から、アーユルヴェーダのワークショップに参加したり、本を集めたりと、興味はありましたが、なんせ若くて勢いだけはあったので、必要を感じていなかったのです。
実際にやってみたら、本当に本当に良くて、感激してます。
漢方やアロマテラピー、アジアの民間で伝わるハーブ療法などの東洋医学の元をたどると、このアーユルヴェーダ(5000年以上前の古代インドから伝承された伝統医学)が起源ではないか?と言われています。
アーユルヴェーダを直訳すると「生命の知識」という意味になり、
私たちの目には見えない生命の法則についての壮大な知識から成り立っています。
長い歴史の中で、その効果は証明されていますから、言われた通りに過ごしていれば、当然ながら効きます。効かなければ、今日まで残っているはずがないですものね。
与えられた体や考えの個性を理解し、最大限に活かし、自分の役割を通して全体の調和へと循環させてゆくことで、満ち足りた人生を送りたい。純粋な願いです。
多種多様な動植物は、土地の気候、季節、地形、月の満ち欠けなどに影響を受けながら、全体の調和を保つ為に、必要があって、その個性をまとい、役割を与えられ、存在させられているように、私たちも自然の一部、そこから外れてはいません。
南国には体を冷やすフルーツがあり、寒い地方の動物は毛が長くてふさふさしていたり、その辺に生えている雑草にも薬効があって、その土地でのバランスを取るために、自生しているように。
与えられた個性を理解して、その上手な使い手になること、
さらに、個人の好き嫌いに惑わされずに、全体から見て調和な選択ができた時の心地よさや充足感を味わうことで、人としての成長があります。
何かを得たり、何かを成し遂げた時の満足感よりも、人として成長できた時の満足感のほうがはるかに大きいものです。
山登りに行くのに、不安や恐れから、あれも必要、これも必要、と 重たい道具を背負って山に登っていた人が、山の知識を知り尽くし、自分の能力を最大限に活かすことができるようになった時、背負う必要のなかった荷物を降ろして、軽々と楽になり快適な山登りが楽しめるようになります。
ちょうどそんな風に、道具としての体や考えの特徴を知り、上手く活かして使いこなし、快適な暮らしをする為の手段として、アーユルヴェーダの知識は役に立ちそうです。
人参の個性を知り尽くしている農家の人は、人参を上手に育てることができるし、馬の特徴を知っている人は、馬を上手に道具として使いこなします。
アーユルヴェーダは、体質別の特徴、季節ごとによって どんな影響を受けやすく、どう過ごしたら良いか、また 1日の過ごし方などを、食事やマッサージ、浄化法など自分でできる生活術を教えてくれます。
もし、牛さんが「なんで私は、草ばかり食べていて、モォー、としか鳴けないのかしら…、たまにはライオンさんのように獲物を捕らえて、かっこよく吠えてみたいなぁ」なんて思って、獲物を捕らえようとがむしゃらに頑張って、草を食べずに苦しんでいたら、牛さんに教えてあげたいですよね、「牛さんは牛らしく生きてゆくことが一番だよ。ミルクを出してくれたら、私も飲めるし…」と。
それまで、自分の個性は自分で作り上げたもので、わたしの所有物だ、と思っていましたが、ヨーガの知識を勉強しながら、アーユルヴェーダを少しかじっただけでも、どうやら私が自分で作り上げたと思っていた体や考えの特徴は、「天然のモノ」というか、「大自然の法則を通して実った結果」であり、少なくとも「個人の私の手の内にはない」ことが解り始めます。
自分の体や考えの特徴をよく理解して、1日の過ごし方、季節の過ごし方を守ると、心身ともに心地よく過ごせます。
アーユルヴェーダも、ヨーガも、全体で一つの生き物であるというエコロジカルな視点を持っています。
「わたし」は個人を指しているのではなく、全体を指して「わたし」なんですね。
ヨーガでは、その本来の「わたし」についての知識を教えます。
アーユウルヴェーダでは、全体の中で生かされている「個人のわたし」が心豊かに、快適に暮らす方法を教えています。
全体宇宙を成り立たせている法則の中で、生かされているということを知り、謙虚さと感謝の気持ちで満たされますように。
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