クラスで行っている呼吸法やアーサナ(ポーズ)をしている時間は、身体や考えと向き合うための贅沢な時間です。
ヨーギー(ヨーガをする人)の持つべき資質として教えられる、シャマとダマを身につけるのには、とても良い時間です。
私はヨーギーではないから、関係ないや…なんて言わないでね、
ストレスを上手に取り扱うための手段にもなるんですよ。
シャマとダマはセットで教えられ、シャマができていないとダマもできないし、ダマがないとシャマもありません。
シャマは、「考え」とそれに気がついている「私」との間にある「スペース」のことで、「シャマがある」と言う時は、客観的な視点にとどまっている、あるいは考えの移り変わりを目撃している目撃者の視点にあることです。
身体や考えの様々な色づきに完全に染まったり、考えに巻き込まれておらず、それらに気がついている私と考えとの間にゆとりがあります。
そして、ダマは感覚器官を統制すること。
この二つはどちらかだけでは成立しない関係だと教えられます。
まずは、シャマの意味を整理したいと思います。
「スペース」といっても物理的に離れているわけではなく、識別のことです。
例えば、
役者が舞台から降りた時に、それまで演じていた役を脱ぎ捨てて、本来の役者に戻っていくように、役は100%役者だけど、役者は役ではありません。
役と役者は物理的には離れたものではないけれど、はっきりと識別することができます。
役者が舞台の上では惨めな乞食を演じ、涙まで流したとしても、舞台を降りた役者は、舞台の成功を喜んで仲間と祝杯をあげます。
役者が舞台を降りた後まで、役で演じた感情をまとって、怒ったり泣いたりしていたら大混乱ですよね。
役者は自分が役ではないことをはっきりと知っているから、舞台でどんな目にあおうとも、全く惨めではありません。むしろ、上手に演じられたことを誇りに思うでしょう。
なので、そこにあるのは物理的な違いではなく、自分と自分でないものとの識別、つまり認識の違いだけがあります。
「考え」とそれに気がついている「私」の識別がある時、「私の考えは緊張している」と言えますが、識別がなくごちゃ混ぜになっている時は、「私が緊張している」と言います。
ちょっとした言い回しの違いではありますが、一つ目の方には、客観的な視点があり、落ち着きや、ゆとりがうかがえます。
二つ目の方は、パニック状態ともとることが出来ます。
シャマがある人というのは、私の考えは怒りで色づいているけれど、それに気がついている私は、色に染まっていないという識別をハッキリ持っている人です。
自分の状態について自覚している、客観的に公平に自分のことを捉えられているとも言えます。
考えは状況に応じて、上がったり下がったり、まるでヨーヨーのように変わり続けるもので、それが考えの性質です。シャマは、考えの働きをコントロールして止めようとする事ではありません。
考えの働きから、距離を置く事です。
これも、物理的な距離ではなく、客観性の事です。
客観的に自分を観察するというのは、ちょうど映画館で映画を楽しむのにも似ていて、観客席にいる私が、映画のストーリーを楽しむように、自分の身体や考えの移り変わりを、映画を見るように観客席から楽しみます。
決して、ストーリーに巻き込まれて映画の主人公にならないように、観客席に居ることをいつも忘れません。
考えに完全に巻き込まれている時とは、ちょうど観客席にいる事を忘れて、映画の中から飛び出してくる恐竜に驚いて、ポップコーンをひっくり返しているようなものです。
スクリーンと観客席との間にある「スペース」が保たれていれば、どんなに怖いホラー映画を見ていても、ある種の落ち着きを保ちながら、ストーリーを楽しむ事ができますよね。
なので、ヨーガクラスの最中に考えを深めている事に気がついたら、今こんな事を考えていたなぁ、と一度確認してから、観客席に戻って身体や考えの移り変わりを観察し続けます。
そうして身体や考えの移り変わりを観察することで、私によって気がつかれている「身体や考え」と、それに気がついている「私」との間の「スペース」がはっきりしてきます。
日常的にもシャマを保ち続けることで、身体や考えの特徴や癖が見え始めます。
こういう状況になると、いつも私はこんな思考や感情が湧いてくる、といった思考のパターンを見つけます。
アーサナや呼吸をしているクラスの中では、自分のマインドの動きや癖が、鮮明にうかがえます。
それについて、責めたり、矯正しようと努力するのではなく、その癖のままに反応する前に、一呼吸おいて、別の選択も検討することができます。
私の先生の先生が話していたジョークでは、
旦那さんと喧嘩して、カ〜ッとなって、そのまま相手を言葉や行為で傷つける前に、シャマがあれば、隣の部屋へ移動して、タオルにたっぷり水を含ませ、思い切り床を叩いて、隣の部屋の旦那さんに聞こえるように叫びなさい。
「あんた!今回だけは助かったと思いなさーい!バッチーーン、ベッチーン、ドッシャーン、ビッターーン!」
なんて冗談を言って笑わせてくれました。
ストレスは溜め込んではいけないそうですよ。
自分や人を傷つけない方法で、発散させた方が良いみたいですね。
気持ちを手紙にしても良いそうですね。
でも、決してその手紙は出してはならないです!!
後で読んでみて、自分でもびっくりするほど、狂気がかっているかもしれないですからね…
そんなこんなで、シャマができるようになると、考えの癖に使われるのではなく、体や考えの使い手になると言います。
自分の思考パターンをジョークにして笑い飛ばせるくらいになれば、
もう、お手の物ですね。
例えば、まっすぐ走らない古い車、その車の癖を知っているドライバーは上手に運転することが出来ますが、癖のままに走らせたら、事故を起こしてしまいます。
癖を知り尽くして、上手にドライブすることは、自分の体や考えにも言えることです。
もちろん、車をメンテナンスして、良い状態に保って、機能が最大限に発揮できるよにしておく努力はオーナーの役割ですね。
過労、暴飲暴食、やせ我慢、怠惰、中毒、犯罪、戦争、そういったすべての問題の根本の原因に眠っているのは、自分を知らないことからくる不安や恐れだとヨーガは言います。
シャマは、シャーンティー(平和・調和・平安)の語源です。
役者が役ではないように、私と私でないものを識別する事で、私が明らかになります。
私自身についての知識がヨーガの聖典には明かされています。
変えられない事と変えられる事の識別がありますように…
私の考えの癖は変えられません。しかし、私の反応は変える事ができます。
変えられない事を変えようとして、時間を無駄にしませんように…
過去の出来事や生まれ、記憶、個性、旦那の個性(笑)、は変える事ができません。
変えられる事を変える勇気と知識がありますように…
思考パターンのままに反応して、失敗を繰り返すのではなく、その考えの癖を上手に取り扱って、新しい行動(選択)に移せますように。
いつも、いつも、我を忘れている私ですから、祈るしかありません…!!
ダマ(感覚器官の統制)については、また整理したいと思います。
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