Pujya Swami Dayananda Sraswati

スワミ ダヤーナンダサラッスヴァティ

伝統的なヴェーダーンタの講師

ヨーガ・ヴェーダーンタの理解の深さと西洋文化の深い見識により、ヴェーダーンタが明らかにする一元論をインドや世界各国で50年以上に渡って教えた。

3年半のヴェーダーンタのコースを8回開催し、そのコースを卒業した生徒たちが世界中で先生として教え続けている。

1930 年 インドのマンジャックディに生まれる

2000年 慈善活動AIM for Seva(All India Movement for Seva) を開始

医療、教育、食料、基本的生活状態の確保に貢献

2001年 「世界の宗教の多様性を守るた為の世界会議」を開催

国際会議(ユネスコや国連連合)の場において、宗教多様性の保存や女性の国際平和の重要性を発言

2009年 東京ヴェーダーンタキャンプを開催

2010年 広島&東京ヴェーダーンタキャンプ

2015年9月23日 マハーサマーディ

 

 

 

 

 

“生きている以上、世界との関わりを持たなければなりません。そのことに選択の余地はありません。また、人間にとって選択を練習することに関して選択の余地はありません。選ばなければならないのです。では、私の言う「知的に生きる」ことに選択の余地はあるのでしょうか?選択の余地はありません。ここにあるすべてのものがイーシュワラであることに気がつくことで、私は知的で地に足のついた生活を送ることができます。なぜならば、私はイーシュワラから自分自身を切り離すことができないからです。私は全てを通してイーシュワラとつながっているという態度をとっています。それが知的な生活です。人生にイーシュワラを持ち込む必要はありません、人生にはすでに、イーシュワラが存在しているということを発見するのです。私は彼の存在に気がつく必要があるのです。”

スワミ・ダヤーナンダ・サラッスワティ 

 

「Living Intelligently」 public talks 1 日本語訳

 

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Talk 1

知的に生きるとは、客観的に関わること

その人にとって選択の余地がないこともあります。息をするべきか、しないべきか?生きたいのであれば、当然このことのに選択の余地はありません。世の中に関わるべきか否か?生きている以上、これにも選択の余地はありません。関係を持たなければなりません。生きるとは関わることです。世界と関わらずに生存することはできますが、それは生きているとは言えません。眠っているとき、その人は世界と関わりませんが、周りの人は、その人が「いびき」をかいているので、関わることになるでしょう。昏睡状態では、人は世界と関ることが出来ません。今は医療サポートが充実しているので、昏睡状態でも何年も生存することができます。ある女性は、アメリカで10年間も昏睡状態で生きていました。それは生きているとは言えません。私は、ただ単に生存することと、自分の人生を生きることを区別しています。自分の人生を生きるとき、私は世界と関係を持たなければなりません。目を開けていれば、私は関係を持ちます。何かを考えれば、私は関係を持ちます。何かを想像すれば、私は関係を持ちます。夢の中でも私は関わっています。起きている間、私は世界と関わっています。

 

 

 

ですから、生きている間は世界との関わりが必要で、それについて選択の余地はありません。また、人間が選択を練習することについても、選択の余地はありません。私は選択する必要があります。私は関わりを避けることを選ぶかもしれませんが、それも関係の一つの形です。私は関係の有無を選んではいません。目を開けるとあなたが見えます、これが関係です。これは主体と客体の関係であり、私は主体で、あなたは客体です。私の声を聞けば、あなたは関係します。関係を避けることはできません。選択することを避けることもできません。私は適切な選択をするのに関してあまり長けてはいないかもしれませんが、選択はしなければなりません。食べるべきか食べないべきか、私は選ぶ必要があります。どのくらいの頻度で食べるか、私は選ぶ必要があります。何を食べるか、私は選ぶ必要があります。いつ食べるか、私は選ぶ必要があります。どのくらい食べるか、選ぶ必要があります。この通り、全てにおいて選択があります。

 

 

状況に応じてどのように対応しますか?

ある状況に関わったとき、あなたはその状況にどのように対応しますか?意識的に対応すれば、選択肢があります。自然に起こるものであれば、選択は自然に行われます。誰かが目の前で滑ったら、あなたは身をかがめて助けの手を差し伸べます。ここには大きな熟考は含まれてはなく、選択は自然に発生したものです。何の熟考もなく自分の行動が正しいとき、私はその選択に「自然」という言葉を使います。私はその選択を「自然な」という形容詞で修飾します。もし、あなたの行動がふさわしくない、受け入れられない、「機械的な」ものであるならば、選択の余地はほとんどなく、その行動は衝動的なものです。「私は自然に彼を蹴った」とは言えません。

 

 

当然のことながら、この選択肢の有無は人によって程度の差があります。選ぶ能力を高めるためには、自分が率先して行動しなければなりません。実際には、自然にするべきことをして、自然に良い行いが出来るようになるためには、より慎重に、より意識的に、選択をする練習をしなければなりません。私と世界との関わりは避けられないので、私は知的に世界と関わるか、無知で機械的に関わるかのどちらかになります。さて、質問です。私が知的に生きることにおいて選択の余地はあるのでしょうか? 選択の余地はありません。問題は、誰もが自分は知的に生きていると思っていて、知的でないのは他の人だと思っていることです。他の人も同じように考えているので、みんな知的だということです。

 

しかし、誰もが他人はそれほど知的ではないとも考えているので、私たち全員が知的ではないということになります。これは何かおかしな論理です。もちろん、より知的になろうと努力することはできます。自分が知的に生きているかどうかは、どうやって判断するのでしょうか。それは、IQテストによるものでしょうか?IQが高くても犯罪に走る人がいるでしょう。では、知的に生きるためには何が必要なのでしょうか。私の考えを言葉にしてみたいと思います。

 

私には次のことがはっきりしているように思います。つまり、知的であるということは、客観的であることなのです。客観的という言葉は、当然のことながら、その反対語である主観的という言葉を前提としています。客観的であることは、主観的ではないことです。私が花を見て、それを花として受け入れるとき、私は客観的です。人を見て、その人のあるがままを受け入れるとき、私は客観的です。

 

 

価値構造における主観性

問題は、その人の考え方や感情、価値観など、その人がどんな人なのかが分からないことです。何年も一緒に暮らしていても、その人のことを分かっているかどうかは疑問です。他人を理解することはとても難しいことです。ですから、私がその人について判断することは、肉体的に同一人物であることを除けば、部分的に主観的で部分的に客観的、あるいは完全に主観的でしょう。時には肉体的にも別の人と間違われることもあります。例えば、マウント・アブに私のそっくりさんがいます。彼の名前はスワミ イーシュワラーナンダで、学識のあるスワミです。私は空港でナマスカーラ、つまり尊敬の態度を示されることがあります。ナマスカーラをした人は、私のことを知っているようです。彼は私に、”スワミジ、いつアブ山から来たのですか?”と尋ねます。私は彼が全くの勘違いをしていることがわかります。

 

 

これはその客体に対しての主観的な見方です。人物の全てを他の誰かと間違えているのです。彼が間違いを犯していることを知っているので、私は彼に「私はイーシュワラーナンダジではありません」と言います。一人の人間が別の人間に間違われるというこの種の間違いは非常に単純で、修正も非常に簡単です。しかし、私が言っているのは、2人の人間が一緒に暮らしていても、お互いに理解していないということです。

 

 

結婚しているということは、相手を信頼しているということです。それは、相手に安心して文句を言えるということです。これには背景があります。後ほど、この背景についてのすべてを調べてみたいと思います。ここでは、問題を浮き彫りにするために、まず、問題を理解しなければなりません。人は、果たして相手に理解してもらうことなど可能なのだろうか、と考えてしまいます。このように相手を理解することができないために、良好な関係が永久に壊れてしまった例は少なくありません。つまり、すべての人間関係には主観的な見方があるということです。

私たちの価値観には多くの主観が存在します。あるものは、実際よりも現実的で重要であるとみなされます。あまりにも重要だとみなされるので、人はそれに取り憑かれてしまうのです。その探求は頭から離れなくなるのです。友情は強迫観念になり、締め付けるようになるのです。このように人は世界で客観的に関係を築くことができません。ですから、自分の人生をおおいに客観的に生きるために、思慮深さをおろそかにすることは適切ではありません。これに選択の余地はありません。

 

 

客観的であることに選択肢はない

客観的であることは、知的であるということです。私が「知的に生きる」と言っているのはこのことです。私たちは様々な分野で客観的になる必要があります。一般的で、曖昧な理解では駄目です。一般的で、漠然とした理解はここでは通用しません。私たちは、理解されるべき特定のエリアを深く見なければなりませんし、風通しを良くしておかなければなりません。自分自身を十分に教育するために、考えに理解という新鮮な空気を送らなければなりません。それによって、人は客観的に人生を生きることができるようになります。

 

 

みんなが共通して理解できる世界はありますが、私は恐怖や心配事、様々なものを投影した私自身の世界に住んでいます。みんなバブルの中で生きています。愛でさえバブルなのです。私はこのバブルに穴を開け、新鮮な空気を吸わなければなりません。まず、この主観性の理由を理解していきましょう。そして、客観的になるためには何が必要なのかを考えます。

 

 

主観に巻き込まれる要因は何でしょうか?無知がひとつの要因であり得ます。一般的に、それが私たちが教えるときに私たちが述べる要因です。私たちは、「何がど何たるか」を教えます。それによって、あなたは様々なリアリティに関してはっきりとした知識を得ることができます。私たちが知らなかったり、曖昧に知っていたり、間違って知っていたりするのは、アヴィッデャー、つまり無知です。ヴィッデャー(知識)は正反対のものです。無知が一つの要因です。

もう一つの要因があります。それは心理的なもので、これをやり過ごすわけにはいきません。自分の心理的な問題に取り組みたくない人は、それが非常につらいものであるため、心理的な要因を単なる心理的なものとして片付けてしまいます。それについてこれから焦点を当てていきましょう。

 

心理的要因に焦点を当てる

人は生まれたとき、完全に無力です。人間の子供は子牛のように単純ではありません。仔牛は生まれると苦労して四つ足で立ち上がります。人間の赤ちゃんがとても安全で安心でいられるのは、まだ生まれていないときだけでしょう。自分自身の心臓を持ちながら、赤ちゃんの体はお母さんとつながっていて、お腹の中で幸せに浮かんでいました。この時が一生のうちで唯一、完全に安全な期間だったのでしょう。それから、自立した人生を歩むために生まれます。なんてことでしょう!自立した人生のスタートだなんて。自立した生活をするためには、必要なものがすべて揃っていなければなりません。少なくとも、物乞いができなければならないでしょう。

 

仮に、無職で、将来の仕事の可能性もなく、お金持ちの義理の家族もいない人が結婚したとします。他の人は、彼のことを考える時間なんてないのに、彼は「他の人は自分のことをどう思うか」について気にしながら結婚します。誰もがそれぞれ自分の問題を抱えています。誰かに会ったら、礼儀正しく何かを聞かなければなりません。私たちインド人には、独自の挨拶の仕方があります。「元気ですか?」その後、あまり話すことがないので気まずい間がありますが、会話を続けるために、「お嬢さんは元気ですか?息子さんはどうですか?彼は結婚していますか?」

「まだなんですよ」「ああ、まだなんですね?」

 

 

他に何か言うことはありますか?しかし、母親は息子が結婚していないことを心配しています。「他の人がどう思うだろうか」と。他人はそんなことを考えている暇はなく、ただ礼儀正しく質問をしているだけなのです。彼女の息子の結婚のことなんて心配していません。このように、息子は他人がどう思うかを気にして結婚しているのです。彼には仕事もなく、仕事の可能性もなく、花嫁もまた仕事がありません。少なくとも、二人とも物乞いはできます。

 

しかし、生まれたばかりの赤ちゃんには物乞いはできません。自立した人生を歩み始めているというのに。これが、私が話したい本題です。赤ちゃんは、1分前までは安全だったのに、へその緒が切られて産まれた今は安全ではなく、無力です、しかも完全に。この状態で自立した旅を始めなければならないのです。何も知らない。目はまだ閉じていて、まだ開いていません。両手で抱き抱えてくれた人への絶対的な信頼を持って、その人生を始めます。それは100%の信頼です。もしかしたら、出産前に赤ちゃんは母親の声をぼんやりと聞いていたかもしれません。今も同じ声を聞いています。もし、その声が違っていたら、赤ちゃんは誰かに渡されたということで、心の中に小さな乱れがあるかもしれません。ほんの少しの動揺です。赤ちゃんは自分を養ってくれる人を疑うことなんて出来ないからです

 

そのため、その人に完全に自分を委ねなければならないのです。それは、大人が麻酔科医に自分を預けるようなものです。麻酔科医を見ても、神ではない人間であるこの人に自分を預けることができるとは思わないでしょう。麻酔の前に、生きて帰れなくても自分の責任だと書かれた紙にサインしなければなりません。そのお医者さんの責任ではありません、と麻酔で無意識になる前に意識のあるうちにサインをするのです。さて、赤ちゃんの話に戻りますが、赤ちゃんには生き延びるための手段がありません。しかし、赤ちゃんは生き延びる本能は持っていて、生物として生き延びるようにプログラムされています。最初の段階では、それが唯一のゴールなのです。それ以外のゴールはありません。赤ちゃんに 「人生のゴールは何ですか?」と聞いてみてください。もし答えられれば、「生き残りたい」と言うでしょう。それ以外のゴールはありません。「この国の大統領になりたい」「この国の首相になりたい」などとは言わないでしょう。生存本能は生物の持つ明かされていない筋書きなのです。それはすべての生物の持つ筋書きです。

 

 

子供が持つ完全な信頼

赤ちゃんは無力です。向きを変えることもできず、生き延びるための力もありません。私が信頼と呼ぶものに自らを委ねているのです。どのような信頼かを知っていますか?それは完全な信頼です。あなたは全知全能の人にだけ完全な信頼を置くことができます。間違いを犯しやすく、時間に束縛され、老いや病や死に囚われている人間には、絶対的な信頼を置くことはできません。創造することはできても、小さなものしか作ることができず、それ以外のことはできないと言っている人を全面的に信頼することなどできないですし、ましてや、創造することはできても、それを維持することができないような人を信頼することなどできません。

 

もしかしたら、造ることができ、それを維持することはできても、撤収することができない、止めることができない人がいるかもしれません、それはちょうど、おしゃべりをやめられない人たちがいるように。そのような人を信用することはできません。そういった場合100%の信頼などありえません。あなたが信頼できるのは、先ほど述べたように、知識においても、シャクティ、力の面でも、何の制限もない人だけです。どのような側面から見たとしても、総合的な能力を持っている人だけを絶対的に信頼することができます。しかし、子供の場合は、無知が完全な信頼を可能にします。赤ちゃんにとっては完全な信頼を持つことが不可欠なことなのです。

 

赤ちゃんは疑う余地などありません。信頼するしかないのです。したがって、完全な信頼とは、信頼された人は子供を養い、お世話をして、その子供にとってのイーシュワラ、神となるという意味です。その人の膝の上でその子はリラックスして眠りにつくのです。揺りかごを揺らす人の声に合わせて、あるいは動く膝の上で眠りにつけるのは、安全だからです。安全だと自覚するのは、絶対的な信頼があるからです。安全は信頼から生まれます。

子供の信頼が徐々に失われていく

携帯電話が鳴るまでは母親を信頼することができます。昔は、ドアがノックされたものです。その後、電話が鳴ったものです。それはもう昔の話です。今は携帯電話が鳴り、あなたは子供から離れてしまいます。母親に一貫性がないので、子供は拒まれたと感じます。あなたはいつもそばにいるわけではありません。このことをよく理解してほしいのです。いくつかのことを知らないでいるわけにはいきません。知る必要があるのです。

 

 

 

一貫性がないと、子どもに乱れが生じます。赤ちゃんの認識の中には、お母さんがいなければなりません。赤ちゃんがお腹の中で成長するにつれ、出産前に聞いていた異なった周波数の聞き慣れた声も認識するようになります。朝や晩に聞こえることもありましたし、時には10日後に聞こえてくることもあります。それだけでも、心が癒され安心を感じます。そう、母親のこの一貫性が、子どもに安心感を与えるのです。

 

 

彼女はワーキングマザーではないかもしれません。この「ワーキングマザー」というのは新しい表現で、まるで他の母親が働いていないかのようです。キッチンで働き、マーケットに行き、彼女たちは家で働いています。子供の認識の中で母親が離れていない限り、子供は安心感を得ることができます。母親が病気にならない限り、子どもは安心していられます。母親が他の赤ん坊に注目しない限り、子供は安心します。母親が声を荒げない限り、子どもは安心します。母親がいつもの周波数とは違う周波数で議論しない限り、子供は安心です。

 

子供が成長するにつれ、不安も大きくなっていくことがお分かりいただけると思います。間違いや一貫性のなさが見え始めます。全面的な信頼はどこにあるのでしょうか?全面的な信頼は、常に侵害され、失われていきます。

大家族では、子供には必ず座らせてもらえる膝があります。空の膝があります。祖母や叔母の空の膝の上に座っていました。今では、空の膝はありません。空の膝があったとしても、その上にはノートパソコンがあります。空いた膝はどこにあるのでしょうか?空いている膝はありません。子供は不安を抱えたまま成長し、不安を抱えたまま、生まれる前に経験したのと同じ安全、同じ安心を求め続けるのです。

 

この子供の特別な経験は、ずっと残っています。それは(心理学で言う)「無意識」と呼ばれるものです。この不安感があっては生きていけないので、大人になった人は皆、自分でこの不安感をお世話する必要があります。知的に生きるために、客観的に生きるために、この「無意識」を徹底的に理解しなければなりません。「無意識」はすべてを色付けて見せてしまいます。すべての経験を台無しにします。すべてを歪めてしまいます。あるがままに見られるものは何もないでしょう。私たちは、この「無意識」に気がついていなければなりません。今からみていきましょう。

トーク2

成熟した反応は、「無意識」を理解することから生まれる

サンスクリット語では、「カシャーヤ」は「無意識」に相当する言葉です。カシャーヤは私たちの人生を支配していますが、私たちはそれをコントロールすることはできません。カシャーヤ、「無意識」の性質は、私たちが認識していないものである限り、私たちはそれに対して何も言うことができません。実際、私たちの自動的な行動は、この「無意識」から来ています。バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドなどの聖典も、「無意識」によって引き起こされる問題を取り上げています。聖典の「アートマヴァーン」という言葉は、「アートマンを持つ者」という意味です。誰もがアートマンを持っています。ここでいう「アートマン」とは、カーリヤ・カラナ・サンガータの全て、つまり肉体・考え・感覚の複合体のことです。つまり、「アートマヴァーン」とは、自分の考えのあり方について主導権を持つ人のことです。これは、人は自分のカシャーヤに対処する必要があるという、シャーストラの認識を明らかにしています。実際、ヒンドゥーサンスクルティ、つまりヒンドゥー文化全体が、これを対処すべき問題として認識しています。

 

「無意識」が自分の人生をコントロールする

まず、このカシャーヤ、「無意識」を理解しましょう。生き伸びようとする本能を持つ人間の子供は、自分の神々(両親)をいつも自分の側に置いておきたいと思っています。明らかに、彼らや彼らの恩恵を失いたくないのです。子供は両親がどんな形の制限からも完全に自由であることを期待しています。その可能性はどこにあるのでしょうか?知識において、力において、健康において、寿命において、一貫性においてなど、母親には制限がないことが求められますが、実際のところ、母親には制限があります。父親にはもっと多くの制限があります。そのため、子供が成長するにつれ、子供が体験していた全面的な信頼が損なわれていきます。子供の無力さはなくなったわけではなく、続いています。2歳児は無力です。2歳児は自分のエゴを発見すると共に、言葉で扱えることなく親の制限をどんどん発見していきます。

 

信頼を裏切る制限を体験していても言葉にできないことは、致命的なものです。これが「無意識」を形成する痛みです。子供はこの痛みを抱えている余裕はありません。痛みで死んでしまいます。とりあえずここでは、「自然の仕組み」と呼んでおくのですが、自然の仕組みとして、子供がこの痛みを絨毯の下に置けるという救済があります。絨毯とは認識に蓋をしてしまうものです。これは、自我の裏返しであり、自分の影の部分です。それを「無意識」と呼びます。

*「無意識・unconscious」は、心理学用語です。サンスクリット語ではカシャーヤと呼ばれます。

 

保育園が子どもに与える影響

競争の激しい今日、私たちは子どもたちは2歳になる前から学校に送り出しています。バーヴナガル(グジャラート州)の保育園で、生後18ヶ月の子供を見かけました。私はその子の母親を呼びましたが、そこにはいませんでした。この保育園を運営している人は、たまたま私のホストでもありましたが、自分の保育園に1歳半の子供がいることをとても喜んでいました。彼女は「スワミジ、この子はまだ18ヶ月なんですよ」と言いました。それは、子どもの信頼を完全に、そして致命的に裏切る行為でした。あからさまでした。すでに、両親が避けることのできない裏切り行為があります。母親はあちこちに出かけなければならず、その間には喧嘩もあれば、頭痛もあり、怒鳴り声もあります。これは死を免れない人間の問題であり、それ自体が子供に十分な問題を引き起こします。これらは人間の一般的な問題です。しかし、1歳半、2歳、3歳の子供が保育園に送られ、母親から引き離されたなら、それは神経症の原因となります。

 

子供の認識の中には、母親の存在はありません。実際、子供は学校に送られると、追放されたのだと感じます。母親が認識から消えてしまいました。子供は、すべてを知っている全知全能の母親、信頼している母親が間違いを犯すはずがないと感じています。だから、「私が何かの間違いを犯してしまったのだ、だから私は追い出されたのだ 」と結論づけるのです。この神経症は社会がもたらしたものであると言われています。両親のもたらしたものです。実際には、母親がもたらしたものです。彼女は子供を学校に追放しました。

子供の意識の中には、母親の存在はありません。実際、子供は学校に送られると、母親が意識から消えてしまったと感じます。子供は、すべてを知っている全知全能の母親、信頼している母親が間違いを犯すはずがないと感じています。だから、「私が何かの間違いを犯してしまったのだ、だから私は追い出されたのだ 」と結論づけるのです。この神経症は社会の貢献であると言われています。社会学者もこのことを話しています。これはすべて無知であり、まったくの無知にほかなりません。親がこのような貢献をしているのです。実際には、母親の貢献です。彼女は子供を学校に追放しました。

 

 

親の言い分はこうです。「社会的なエチケットやソーシャルスキル(社会性)をどのように学ぶのですか?」では、ソーシャルスキルとは何ですか?私たちはソーシャルスキルを持っていないのでしょうか?誰もがソーシャルスキルを持っています。たった2日でソーシャルスキルの全てを教えることができます。それには時間はかかりません。むしろ安定した人が必要なのです。また親は主張します。「保育園に行かないで、この競争社会でどうやって生き抜いていくのでしょうか。さらに、これらの小学校では、保育園の卒園証明書がないと入学を許可してはくれないのです」これも問題です。これはまた別の問題で、変えていかなければなりません。

これらの保育園は、将来の世代の安定性、正気を破壊します。今の世代自体がそこから生まれています。後になって、私たちはこれらの子供たちに、高等教育への入学許可を得るために、97%、98%、99%などの得点を求めます。98.5%が合格ラインなので、99%の得点を取らないと、キャピテーションフィーを払わなければならなりません。父親は60%、母親は72%の得点しかありません。父親は60%、母親は72%。遺伝的な平均値で考えると、子供は66%しか取れません。その子はどうやって99%を取るのでしょうか?遺伝的には非論理的です。だから、子どもが壊れてしまうまで、ひたすら追い込むのです。壊れなかったら、あとで何をするかわかりません。

子どもたちを保育園に入れてはいけません。子どもが5歳になったら、1年生から学校に通わせる。それが正しいことなのです。

 

 

 

保育園を見直す必要性

保育園に通わせるとなると、誰かが家から付き添わなければなりません。だから、お母さんも一緒に来てくれる保育園にしましょう、と。

「スワミジ、すべての母親が来れるとは限りませんよ」「では、なぜ母親になったのですか?」「スワミジ、そんなこと言っても女性は母親になりたいのです」「それなら母親にしてあげて下さい」「いやいや、朝は母親で、夜は母親なのです」「その間は何をしているのですか?」「ワーキングウーマンです」

仕事の場でも、母親の気持ちは常にあります。朝は母であり、夜も母であり、その間の母親をもみ消すことはできません。それは不可能です。子供がいなくても、あなたは常に母親なのです。しかし、子供が母親なしでいるとしたら、それは正しくありません。

 

「わかりましたよ、スワミジ、でも給料袋が2つ必要なんです。そうしないと生活が成り立たないのです」「わかりました。それならせめて、おばあさんを送ってください」「おばあさんというのは、私の義理の母のことですか?」「そうです」「それは、彼女が私のところに滞在するということですか?」「はい」「スワミジ…、それは大きな問題になります!」

私たちは、チェンナイで母親が子供に付き添う学校を2校始めました。実際、このような学校をすべての地域で始めるべきだと思います。子どもたちに母親と一緒に来てもらい、1つの学校を始めるのです。すべての保育園をきっぱりと廃止するか、保育園がすべきことをさせるべきです。人生を破壊する権利は誰にもないのですから、そうすることが重要です。こうして分かっている問題の全てが、子供のためにも、社会全体のためにも、私たちの文化のためにも、国のためにも良くないと言っています。こうして分かっている問題に反して人が進むなら、その人は本当には理解していないということです。(拍手).

 

私は今、人々の正気に訴えます。子供にはとても優しく、必要なものには敏感でなければなりません。そして、子供を母親や神々から引き離すようなことをしてはいけません。学校教育の名の下に、子供とその神々の間に入ってはいけません。私たちの文化では、夫とその妻の間に入ってはいけません。二人が話しているときに間に入ることもできません。母親と子供の間に入ってはいけません。先生と生徒の間に入ってはいけません。子供とその神々の間には決して入るべきではありません。これはとても重要なことです。

 

ヴェーダの教育システム

古代にはこのような状況はありませんでした。「チャーンドーギョーパニシャッド」を読むと、シュヴェータケートゥの父親であるウッダーラカが、シュヴェータケートゥを12歳の時にグルクラ(子供達が先生と一緒に共同生活をして学ぶ学校)に送ったことがわかります。私たちはヴェーダから学ばなければなりません。子供がグルクラに送られるのは、12歳になってからです。それまでは家で学ばなければなりません。つまり、10代はグルクラで過ごすことになります。親にとっては、子どもの10代が抱える問題から解放されるという素晴らしい制度です。10代が抱える問題はグルクラの先生方が面倒をみてくれます。子供が12歳になるまでは、両親と一緒に家にいて勉強しなければなりません。これは非常にまともな仕組みです。

 

 

こういったことがあった後で、マダム・モンテッソーリのシステムは、ここ数年のうちに登場したものです。数年以内にまた変わり得るでしょう。モンテッソーリ氏は良い女性でした。彼女が正しかったのは、人間のIQが上昇するのは4歳までだということです。それ以上の年齢になると、IQは一定になります。ですから、彼女の教育システムは子供のIQを向上させるように設計されていました。彼女は自分が子供の成長に何か貢献していると思っていました。しかし、彼女は自分が子供に精神的な病を起こさせていることを知りませんでした。この精神的な病は、子供に “自分はダメな人間だ、だから母は自分を追いやったのだ “と思わせるものです。最悪なのは、母親が私にこう言うことです。「スワミジ、うちの子はそうではなくて、学校が大好きなの。あの子は帰ってくると、学校のことや楽しかったことを私に話してくれます」。子供が学校を好きになればなるほど、その下にある痛みは大きくなります。

子供が喜んでいるように見えるのは、母親を取り戻したいと思っているからです。子どもは親に憧れを抱いていますが、その裏には大きな痛みがあり、「無意識」として日に日に形成されていきます。4歳半になると、「無意識」の形成が終わり、意識の形成が始まります。いずれにしても、意識の形成において「無意識」の存在を認めることになります。一生の間、「誰も私を好きになってくれない、誰も私を必要としてくれない」という孤独感があるのです。

 

この混雑したジャガットにすら、孤独があります。でも、よく考えてみてください。見上げれば、星があります。周りを見れば、人、人がいます。人がいなくても、少なくとも虫は足りています。いつでも仲間がいないわけではありません。それでも、人は言います。「ああ、スワミジ、私は寂しいです。私はとても寂しいです」。そう言っている間にも、虫に噛まれてしまいます。その人はどうして孤独なのでしょうか?誰も孤独ではありません。それは感覚に過ぎません。

子供は自分が理解されていないと感じているので、「私は何も悪いことをしていない。なぜ私が追い払われなければならないの?なぜこんな風に追放され、罰せられなければならないの?私は悪いことをしてない。でも、追放されたということは、悪いことをしたのかもしれない。とはいえ、何も悪いことをしていないのだから、私は悪くない」。このように、無邪気な子供は本当に混乱しています。この混乱は、その人の一生の間ずっと続きます。あらゆる状況に対するその人の反応を、客観的ではなく主観的なものにしてしまうのです。

そこにありもしないものを投影してしまうのです。簡単なことが問題に変わってしまうのです。例えば、あなたの大切な人がくしゃみをしようとしていたまさにその時、あなたはその人に 「あなたは今でも私のことが好き?」と尋ねたとしましょう。その人は、くしゃみをしようとして、顔をしかめているかのように歪めました。あなたは、その人が顔をしかめているように見えたので、それが答え、つまり否定的な答えだと思い込んでしまいました。ボディランゲージさえも非常に大きな問題となるのです。

 

家庭でのコミュニケーションの必要性

家庭でのコミュニケーションがないと、人々は萎縮してしまいます。親たちは私に、「スワミジ、私たちは子供の前では決して喧嘩をしません」と言います。彼らは、自分たちが喧嘩をしても、子どもたちはそれを知らないと本当に信じているのでしょうか?でも、子どもたちはいつも何かが起こったことを感じています。その後、両親が笑って戻ってくると、子供はその不気味な笑いに何か問題を感じ、家の中で気を使ってしまうのです。欧米では、このような家庭を「機能不全」と呼びます。機能不全の家庭とは何かを理解することができますね。

 

系統的に整った社会構造は祝福だった

その昔、インド人の心は、高度に系統的に整った予測可能な社会の中で生活していたため、迷いのない安心なものであると考えられていました。父親が祭司であれば、息子も祭司になります。ですから、「何が起こるかわからない」という心配はありませんでした。息子は祭司になります。その息子は、より優れた祭司になるかもしれませんし、より多くの情報を持ち、高度な教育を受け、学者になるかもしれません。このように、職業そのものが卓越され、熟達していったのです。競争はありませんでした。鍜治屋の息子は鍜治屋になり、大工の息子は大工でした。例えば、蛇使いは、父親が蛇使い、曾祖父が蛇使いという、蛇使いの血統を受け継いでいました。実際、彼のゴートゥラ(家系)はパームバーッティ*でした。

* 蛇使いは、タミル語でパームバーッティと呼ばれる。

 

 

正確に言うと、蛇使いはハッタリです。蛇は誰にも魅了されません。蛇は耳が聞こえません。蛇には耳が無いのです。蛇がプンナーガヴァラーリのラーガ(旋律)に合わせて踊ることはありません。ラーガは私たちの為だけのものです。それは私たちを眠らせるためのもので、それ以外の何ものでもありません。どうして分かるのか?って、それなら蛇使いに来てもらって 笛でラーガを吹いてもらいましょう。蛇は起き上がらずに 籠の中で寝ているでしょう。蛇使いは特殊なひょうたんの楽器を持っていて、蛇はそれをマングースと勘違いして攻撃しようとします。いつもマングースが勝つのですが、戦わずして諦める蛇はいません。そのため、フードを広げて身構えているのです。

 

蛇使いがメロディーを奏でると、楽器が動き、蛇も動きます。実際には、蛇が踊っているのではなく、蛇使いのパイプ楽器が動いているのです。これは時代を超えた最大のハッタリですが、面白いですね。それを変えてはいけません。

同じように、グドゥグドゥ・パーンディ(占い師)の家系に生まれた息子は、占いを職業とし、別の占い師の娘と結婚することになります。そのため、社会には競争がありませんでした。安心感があり、構造化されていて、社会には健全な精神がありました。私は、そのような社会システムが戻ってくることを望んではいません。しかし、私が気にかけているのは健全な精神であり、それを何かと引換にすることはできません。なぜ私たちは心の安定を犠牲にしているのでしょうか?

*彼は「グドゥ、グドゥ」という音がする楽器を持ってやってきます。それでタミル語ではgudugudu-paandiと呼ばれています。

 

 

幸せとは、自分自身を完全に受け入れること

ある人が木の下に座って幸せそうにしています。彼は何も持っていません。これは全世界に伝えるべきことです。ただのふんどし一丁の人でも、幸せで満足していれば祝福されています。カウピーナヴァンタハ カール バーギャヴァンタハ。ふんどし一丁の人がすべて祝福されているわけではありませんが、何も持っていなくても、ありのままの自分で満足している人はいます。

 

 

結局のところ、自分が成し遂げたいこととは何でしょうか?それは、自分という人間を全面的に受け入れることです。自分の内側も外側も完全に受け入れられたならば、それが成功です。それまでは、他人からの承認、社会からの承認を求めます。自分が何者かであるかを誰かに証明したいのです。それは絶え間ないあがきです。

構造化された社会での安定性

我々はこれを進歩的な社会だと言います。正直なところ、インドには誰もが憧れる健全さがありました。今日でも、私たちが認識したほうがいい事実があります。これは、私たちの手柄として話しているのではありません。この事実とは何のことでしょうか。戦後、植民地だった国から独立した国では、どこでもクーデターが起きています。インドから切り出された隣国でさえ、次々とクーデターが起きていますし、今起きているのもクーデターです。では、なぜインドではクーデターが一度も起きていないのでしょうか?私たちに何か問題があるのでしょうか?インドでは革命が起こるべき状況がなかったのでしょうか?クーデターの機会はなかったのでしょうか?機会はありましたが、クーデターは起こりませんでした。それが私たちの文化であり、そこには健全性と安定性があります。それが過去の文化の名残だとは思いたくありません。完全に消えてしまったわけではなく、まだ生きているのです。

構造化された社会には安定性があります。構造化された家庭には安定性があります。家庭が構造化されていない場合、今日起こることと明日起こることがあまり明確でない場合、家庭は機能不全に陥ります。子供たちはいつもパニックに陥ってしまいます。

 

誰もが「無意識」を持っているので、クローダ、怒りのように多くのことが起こるのです。私たちは意識的に怒っているわけではありません。怒りは、私たちの中に座っている最大の敵であるマハーパープマーと考えられています。それは全て、アッデャートマ、私たちに関わるものです。私は今、そのアッデャートマについて話していきます。

 

怒りは「無意識」から生まれる

欲望のレベルでは、ある種の選択肢があります。怒りのレベルでは、選択はありません。怒ることを決めることはできません。私が懇願しても、意識的に怒ることはできません。私はあなたに「拍手してください」とお願いします。自由は文字通りあなたの手の内にあるのですから、あなたは拍手をすることもできるし、拍手をする必要もありません。私が「拍手してください、さあ、拍手してください」と言うと、何人かは拍手しましたが、何人かは拍手せず、典型的なインド人のように、「他の人が拍手するのに、なぜ私が拍手しなければならないのか」と考えました。拍手には完全な自由があります。それはあなたの意志に基づいています。あなたはそれをすることもできるし、しなくてもいいのです。

 

しかし、私があなたに「30秒だけ怒ってください」と言うと、それは別の要求です。怒らないことと、怒れないことは全く別のことです。アダルマをしないことと、アダルマをできないことは全く別のことです。それは、あなたの成長のレベルが全く異なるものです。あなたは30秒だけでも怒ることはできないのですか?

 

「スワミジ、私は決して怒らないとは言いません。しかし、人は意識して怒ることはできません。」「ということは、怒るんですか?」「はい、怒ります」。もし誰かが「私は怒らない」と言えば、私は簡単にその人を怒らせることができます。ある人が「スワミジ、この3年間、私は怒りませんでした。」と言いました。「本当に?あなたはそんな風には見えませんよ。」「いやいや、3年間一度も怒らなかったですよ。」「あなたは、怒るべき人や状況に出会わなかったのだと思います。3年間、あなたは逃げていたのです」「いいえ、スワミジ、私はもう怒らないと思います」「あなたは確信していますか?」「はい、スワミジ。」「確信はできないでしょう。」「なぜですか?スワミジ」「あなたはそんな風には見えないからです。」「ちょっと待ってください!私の見た目のどこが悪いというのですか?」

 

怒りの始まりはここからです。私は、彼が怒らないことを受け入れました。引き際を知らなければなりません。それが知的に生きるということです。これは一つの例です。まあ、怒ることはあっても意識的には怒らない、つまり「無意識」に怒るということですね

 

 

「スワミジ、私は無意識に怒っているわけではありません。いつも誰かが私を怒らせているのです。」それが「無意識」というものなのです。誰かがあなたを怒らせることができるとしたら、それは「無意識」によるものです。誰もあなたを怒らせることはできません。あなたは、あなたを怒らせる為に誰かに身を委ねているのです。これが「無意識」です。これは、あなたが自分自身の投影の世界に住んでいるということです。この世にあなたを怒らせることができる人や物は存在しません。怒りは症状であり、「無意識」の中にある痛みからの結果であり、表現です。「無意識」とは、当時のまま凍結された子供なのです。

 

 

誰もが自分の中に子供を持っています。子供は何か美しいものを持っています。無邪気さ、新鮮さを持っています。子供は好奇心に満ちた目であなたを見つめ、好奇心に満ちた質問を投げかけます。何を、なぜ、どのように、などなど。それらは、外側の子供から来たものであれ、内側の子供から来たものであれ、大人から来たものであれ、常に同じ新鮮さを持っています。

 

 

大人の自我と子供が一つに統合しているのであれば、常に新鮮な気持ちで物事を見て、常に疑問を持ち、常に知りたいと思っています。あなたには、子供の新鮮さが必要です。今でもあなたはそれを持っています。しかし、怒りに支配されたり、嫉妬に支配されたり、憎しみに支配されたりすると、あなたは取り憑かれたように感じます。

 

 

自分を知ることが、「無意識」を扱う為の唯一の救い

アルジュナは、「どうして人は、自分が望んでいない事を行ってしまうのか?」*という質問をしました。それは昔からあるお馴染みの質問であり、新しい質問ではありません。その理由は、「無意識」、インナーチャイルドにあります。あなたの人生は「無意識」に支配されていて、あなたはそれをコントロールすることができません。ですから、「無意識」に風穴を開け、勇気付けて表に出さなければなりません。人生において「無意識」はそれ自身を表現し続けています。あなたが知らないうちにそれは起こります。あなたがこのことを見通せていなければ、「無意識」の表現は生涯にわたって起こり続けることになります。

 

*atha kena prayuktoyar pāpar carati pūruşaḥ. anicchannapi varsneya

balādiva niyojitaḥ? (Bhagavad Gītā 3.36)

अर्जुन उवाच

अथ केन प्रयुक्तोऽयं पापं चरति पूरुषः। अनिच्छन्नपि वार्ष्णेय बलादिव नियोजितः॥(३६)

 

知識があれば、すべての問題を扱うことができます。知識によって与えられたスペースがあれば、あなたは自分の恐れや不安を歓迎することができます。知識があれば理解することができ、それが唯一の救いとなります。現代の心理学には、認知的アプローチを語る部門があります。しかし、私たちのシャーストラは、この認知的アプローチについて長い間ずっと語ってきました。

最初の反応と二段階目の反応

内側のスペースは、私に起こったすべてのことを明確にし、理解することで得られます。それは、他の人に対応する際にも、美しい考えの形を私に与えてくれます。私にも様々な出来事が起こったのだから、私だけではなく他の人にも様々な出来事が起こったに違いないということです。人が特定の行動をとるのは、そこにバックグラウンドがあるからです。私はその行動の中にあるその人のバックグラウンドを認識します。その認識は、私の内側にスペースを与え、私はその人にすぐに反応することはありません。これが、世界に対する二段階目の反応と私が呼ぶものです。最初の反応とは、「よくそんなことが平気で言えるな!」「よくもまあ、そんなことを言ってくれたもんだ!」「誰に向かって言ってるんだ!」というようなもので、自動的な反応です。

 

二段階目の反応では、「ああ、この人の発言にはバックグラウンドがあるんだな」と言います。あなたは、その人の発言にバックグラウンドがあることを認識するためのスペースを内側に持っています。そうでなければ、その発言は受け入れられません。その人にふさわしくない発言です。あなたは、その人の行動の背後に何かがあることを理解しています。これが二段階目の反応です。二段階目の反応があれば、内面的な余裕が生まれ、さまざまな背景を持つ人々に、かき乱されることなく、持ってかれることなく接することができます。引き下がって、相手を優しく見守ることができるのです。ここに、優しさ、思いやり、理解が生まれるのです。もし誰もがこの二段階目の反応を持っているなら、誰もが聖人君子です。聖人はあと一歩のところにあります。誰もがこの聖人らしさを一歩先に持っているのです。あなたは自分自身の問題に対応する必要があります。それができて初めて、世界に意識的に対応することができます。自分の怒りや恐れを受け入れるスペースを持つ必要があります。

 

 

怒りの管理

“スワミジ、これは何か違うような気がします。私たちはいつも “怒りをコントロールしなさい “と言われています。怒りをコントロールしても、数日後には津波がやってくるでしょう。怒りをコントロールすることはできませんが、怒りの表現の仕方をコントロールすることはできます。その違いを理解してください。子供や配偶者、その他の人を犠牲にするような怒りの表現をしません。結婚とは、ボクシングの練習相手を持つことではありません。誰かを犠牲にすることはありません。「怒りをコントロールする」というのは曖昧な表現です。なぜなら、怒りはあなたに許可を求めないからです。「出てもいいですか?しばらく待っていました。そろそろ、出てもいいですか?」 とは言いません。

 

 

怒りについてはあまりにも無知なため、お金儲けのための問題や話題になってしまっています。怒りをコントロールするためのワークショップでは、「怒りを感じたら、あれやこれやと考えて、怒りから目をそらしなさい」と言われます。しかし、怒りをそらすと「消化不良」を悪化させてしまいます!怒りはどこへ行くのか?実のところ、あなたは怒りではなく、怒りの表現をコントロールすることしかできません。そのために自分の意志を使うことができ、それも人の助けを借りてです。知的な生き方とは、助けが必要なときに助けを求めることです。人の助けを借りて自分の意志を使うことができれば、誰かを犠牲にすることを避けることができます。これが「ダマ」と呼ばれているのです。「ダマ」とは「バーヒェーンドリヤ・ニグラハハ」という意味で、行動器官をコントロールすることです。あなたは誰も犠牲にしません。

 

 

しかし、怒りがあなたの中にあるので、耳から煙が出てしまいます。それを避けるために、怒りを書き出すのです。怒りを取り除くということです。あなたは自分の「無意識」を知的に処理し、自分自身を知的に処理します。このことについて無知でいることはできません。

 

新年になると、「日記を書くぞ 」と誓いを立てますよね。最近では、あなたも日記を書いているかもしれません。自分の日記を確認してください。少なくとも1999年以降の日記はすべて確認してください。最初の3ページに書き込みがあるかもしれません。残りのページは空白で、落書き帳として使われているかもしれません。ですから、このような愚かな誓いを立てないでください。なぜそんなことをするのですか?知的でありなさい。日記を書かないことがわかっているのに、なぜそんな誓いを立てるのでしょうか?同じように、「これからは怒らないようにしよう」と言いませんように。それは間違いです。その代わりにこう言いなさい。「私は怒りを歓迎します。私は誰かを犠牲にしません。私の子供、配偶者、義理の家族、その他の人を犠牲にしません。私は自分自身も犠牲にしません」これが清廉潔白な表現です。自分を犠牲にするのも正しくありません。私たちはこれを知的に扱う必要があります。

 

 

4 This lecture-series was held in January 2005, at Chennai, India.

4 このレクチャーシリーズは、2005年1月にインドのチェンナイで開催されました。

 

 

怒りを歓迎する

怒りを歓迎します。怒りが来ても、誰かを犠牲にするようなことはしません。誰かの助けがあれば楽にできます。自分自身を助けることができますし、自分の家族に助けを求めることもできます。機能不全の家を機能的な家に変えることができます。機能的な家庭にするには、「この家では、これからは誰も、怒りのために誰かを犠牲にすることはありません」と皆に伝えます。つまり、あなたが怒っているときは、「今は怒っているので、後で話します 」と言うのです。他の人にも「怒ったときは、後で話すと言ってください」と伝えましょう。他の人にも、「私が怒っているときは、私が怒っていることを思い出させてください」と言って、力を貸してもらいましょう。これを子供たちに伝えれば、怒りに近い状態になる前に思い出させてくれるでしょう。「お父さん、あなたは何かに近い状態に…」彼らは知っていて、あなたに思い出させることができます。

 

 

また、子供達は誰かを犠牲にしないことも学びます。家庭を機能的にしましょう。誠実な家庭、理解のある清潔な家庭に勝る遺産は子供たちにありません。成長、自己成長は家庭の中で行われます。人の成長が台無しにされる家庭とはどんな家庭でしょうか?父が来るからといって、子どもたちが自分の部屋や隠れ場所に逃げ込むような家庭は家庭と呼べるでしょうか。父親が来るということは、まるで虎が来る警告のようなもので、犬以外はみんな家の中に入ります。中には、犬でさえも逃げてしまう人もいます。これは正しいことではありません。これは知的な生き方ではありません。あなたは知的である必要があります。

 

 

主観は知覚が捉えたことを歪める

状況に応じて客観的に対応する必要があります。人や状況に客観的に対応するには、自分の中で一歩踏み出す必要があります。あなたの主観はあなたの認識を不安定にし、歪めます。時には、投影されたものが状況を一変させてしまうこともあるのです。

 

 

私たちのシャーストラは、この歪み、主観性をアッデャーサ、つまり重ね合わせや投影として教えています。*タスミン タッド・ブッティヒ(それがあるところに、それを見る)は知識です。タスミンとは、対象物のことで、タッド・ブディヒとは、あるがままの対象物についての認識です。それは、対象物をそのまま理解するということです。これが知識です。アタスミン タッド・ブッディヒ(それが無いところにそれを見る)はその反対で、実際にはないものをそこに見ることです。

*ブラフマースートラのシャンカラバーシャに出てくる詩

 

 

ある対象物が他の対象物と完全に間違えられている場合、アッデャーサを修正するのは簡単です。しかし、対象物が他の対象物と完全に間違えられているのではなく、その対象物が全く持っていない特性を持っているように見てしまう時、アッデャーサは非常に扱いにくくなります。それは人間関係において致命的になります。多くの良好な関係が、取り除くのが非常に困難なこの部分的な投影のために壊れています。この投影は、もちろん、あなた自身の「無意識」からのものです。

 

 

アッデャーサには、ショーバナとアショーバナの2種類があります。ある物体を実際よりも価値のあるものとして、あたかもそれがすべての問題を解決してくれるかのように見る場合、それはショーバナ・アッデャーサと呼ばれます。また、ある対象物を実際よりも脅威的なものとして捉えることをアショーバナ・アッデャーサといいます。どちらもあなたの知的な生活を損なわせます。

 

 

主観性を減らす

あなたは客観的に世界と関わる必要があります。客観的になるためには、自分の主観を減らす必要があります。問題は、主観性がどれくらいあるのか、ショーバナ・アッデャーサやアショーバナ・アッデャーサがどれくらいあるのかが知られていないことです。ここでは、一歩下がって、自分がどのように状況に関わっているか、自分がどのように世界に関わっているかを理解した上で状況を見ることができる、確かな能力が必要です。あなたは自分がどのように状況に関わっているかをよく知っていますが、同時に主観性や重ね合わせがどれくらいあるかを識別してはいません。私たちの問題は、明白なものを見逃し、明白ではないものを求めてしまうことです。

 

 

関わる為に、あなたは今に居なければなりません。「私」が主体で、「私」が関わるものが対象物なのです。私が対象物と言っているのは、文法上の目的語のことです。それは、人であったり、物であったり、状況であったりします。あなたが客体化しているものを対象物と呼びます。あなたは対象物を客体化している主体です。主体と客体の関係は生きています。

 

 

全体と関わる個人

あなたはこの世界と常に関わる必要があります。関わりの中で、不変の存在であるのは、一人称単数形の「l」と呼ばれる主体です。対象物は変化しますが、主体は常に不変です。主体はいつもヒーローです。そのヒーローである、彼または彼女は、すべての状況において中心的な人物です。

 

 

客観的であるということは、主体を理解することです

この主体は、影響を受ける主体です。当然、対象は計り知れないほどのものです。あなたは圧倒的な大きさと力を持っていません。ウィルスやバクテリアのような小さなものが、あなたを簡単に支配します。あなたはそれらを見ることすらできません。彼らは皆、目に見えない敵です。そして、もちろん知られているものも大きな力です。つまり人間です。これらはすべて存在し、あなたを狙っているのです。可哀想なあなたは、影響を受けたあなたです。共有できる人はいますか?あなたの運命を分かち合える人はいますか?運命を分かち合える人を探そうとしても、相手は自分の荷物を持っています。誰が誰を慰めるのか、誰が誰を助けるのかわかりません。助ける側にも助けが必要です。それは負け戦なのでしょうか、それとも自分の中に助けがあるのでしょうか。

 

 

不変の主体

これを見ると、一つのことが明らかになります。あなたはすべての状況に必ずいるのに、自分自身の事を一人の人間としてではなく、様々なものの集まりとして見ているのです。あなたは息子や娘、義理の息子や義理の娘、兄弟や姉妹、母親や父親、妻や夫などです。あなたの中には非常に多くの主体となる存在がいて、これらすべての主体があなたの問題の原因となっています。この山積みになった問題に関して、すべての役割の中に、不変の「あなた」が存在します。「あなた」は、役割である息子、父、夫、兄弟など、あらゆる主体の魂そのもののようです。このように、主体というのは、関わる人物に関連する状況の変化でしかありません。「あなた」は確かにそこにいますが、状況は変わります。状況が変われば、(問題も変わりますから)当然、息子の問題というのはその人によって演じられている役割上での問題でしかありません。問題は、その人そのもの、あなたではありません。その人自身は、問題を抱えている全ての役割から解放されているようです。

 

役者の役と実生活での役

あなたが人生で演じる役は、役者が舞台で演じる役に似ています。例えば、ある役者が台本通りに多くの苦難を受ける物乞いの役を演じているとします。しかし、役者はその役に影響されているようには見えません。ある場面で、彼は声を上げて泣くことになっています。彼は、自分の目から本物の涙が出るほど上手に泣いています。彼は自分が泣いていることに満足しています。シーンが終わった後、観客席に座っていた友人が楽屋に来て彼を祝福します。「おい、あの泣き方は見事だったぞ。どうやって泣いたんだい?玉ねぎの皮を持っていたのか?どうやってあの本物の涙を出したんだ?」役者は、自分があんなにうまく泣けたことをとても喜んでいます。

 

 

なぜ彼は実生活でも同じように役を演じないのでしょうか?すべての状況の変化は、役割として見られています。息子は役割であり、父親は役割であり、夫は役割です。あなたは息子でもなく、父親でもなく、夫でもありません。あなたが両親との関係上で自分を見るとき、あなたは息子か娘です。子供との関係上で自分を見るとき、あなたは父親か母親になります。それは相対的なものです。

 

劇場では、役を演じている間中、自分自身に気づいていることはとても簡単です。そこでは、金色のローブを身にまとい、一人称複数形の「we」を使っているにもかかわらず、自分が本物の王様ではないことを知っているのです。すべてはドラマなのです。舞台では王様や立派な人の息子の役を演じていますが、自分が平凡な誰かの息子であることを知っているのです。

 

しかし、現実の生活は、ドラマのようには見られません。その人は影響を受けています。誰もがその人に影響を与えます。その影響を受けた人が演じるそれぞれの役を見てみると、問題のない役はありません。実生活でも芝居でも、すべての役には問題がつきものです。問題のない役というのは、ほとんどありません。芝居では、それが役であることがはっきりとしていて、役と役者の間にはスペースがはっきりとあります。しかし、実生活ではそのようなスペースはどこにあるのでしょうか?スペースはありません。内側はすべて混雑しています。息子や娘としていくつかの問題を抱え、父親や母親として問題を抱え、これらの問題はすべてあなたという人間に集約されているのです。

 

役者が劇場で役を演じるときに得られるスペースはどこにあるのでしょうか?スペースは物理的なものではありません。役はその人です。物乞いBは、役者Aです。Bが舞台に出てきたら、実際はAが出てきます。本当のところ、Bは舞台には出てきてはいません。ですから、BはAです。B=Aであるとき、我々の一般的な方程式ではA=Bであることを示しています。ここではそうではありません。なぜでしょう?

実際、Aは自分のアイデンティティを失うことなくBの役を引き受けています。役者として、台本に沿って役の感情に同化しながらも、劇中ずっと自分が役者であることを覚えています。物乞いの役を引き受けながらも、その間ずっと自分自身や自分の富を思い出します。そこにはスペースがあるのです。

 

自己認識から生まれるスペース

そのスペースとは何でしょう?役の問題は、役の中に閉じこめられています。役の抱えている問題は、役者Aの中に入り込んで影響を与えることはありません。なぜなら、そこにはスペースがあるからです、自己認識から生まれるスペースがあるのです。そのスペースは影響を受けません。役者Aは、アサンガ、影響を受けません。役者Aは物乞いBにしっかりと現れています。役者Aのいない役Bはありません。役Bの全体は役者Aの全体ですが、同時に役者Aは巻き込まれていません。それはここでは非常に明白なことです。スペースがとてもはっきりしています。したがって、人は影響を受けないままです。

 

現実には何が起こるのでしょうか?世界は変わるものであるがゆえに変化し続けています。あなたも変わります。つまり状況の変化に従って、あなたも変化します。目の前に何人かの人がいて、一人目がお父さん、二人目がお母さんだとすると、お父さんの前ではお父さんの息子になり、お母さんの前ではお母さんの息子になります。父の前での息子と母の前での息子は違います。そして3人目はお姉さんで、あなたは弟になります。これには時間はかかりません。次は配偶者、その次は友人といった具合です。関わる人に関連して、あなたは変わります。これを健全な考えと言います。

 

健全な考えとは、状況にふさわしい人を持ち出すことです。間違った人を持ち出すわけにはいきません。そうですね。しかし、現実の生活の中で役を演じているときには、役者である、その人のことを知らないために、役と役者の間にあるスペースは存在しません。「あなた」とあなたが演じる「役」は違うということは、とてもはっきりしています。あなたは主体であり、人であり、一人称単数形の意味であるアハム「私」です。役を離れたら、この「私」はただ気が付いている存在です。この気が付いている存在を理解しなければなりません。舞台で演じるように実生活で役を演じるためには、自分に対する間違った見解をすべて修正し、自分が何者であるかをはっきりと理解しなければなりません。

全体は既知と未知の両方

私が気が付いている存在、意識的な存在であるということは、私がこの肉体・考え・感覚の複合体を基準とした個人である、ということだけでは十分ではありません。一人の個人として、私は意識的な存在です。この意識的な存在は、全体にも関係しています。それは、森の中の一本の木のようなもので、お母さんの木にも、自分の兄弟の木にも、森に生えている他の小さな木にも関係しています。この木は他の木と相互に関係していますが、同時に森という実在にも関係しています。森が実在であり、この特定の木が森と関係しているならば、この木と森の関係は、他のすべての木と森の関係と同じです。それは個人と全体の関係です。全体とは、森のことです。

 

 

一人の人間として、私は全体と関係しているのです。このことを否定することはできません。全体なくして個人は存在しません。全体が理解されなければなりません。全体を理解せずに、誰かが「私は意識、アーナンダ、至福」と言っても、それはうまくいきません。なぜなら、その人は個人が全体の一部であるという現実を回避しているからです。この現実を回避することはできません。また、あなたの心理的な事実も回避することはできません。あなたはそれに対処しなければなりません。問題は、「全体とは何か」ということです。

 

全体とはあなたが見ているもの全てです。ところが、あなたが見ているもの知っているものはとても小さなものです。あなたの「全て」という概念自体が非常に小さいのです。「全て」とは、既知のものと未知のもの両方と捉えるべきです。既知のものに未知のものを加えたものが全体です。未知のものとは、部分的に知られているもの、間違って知られているもの、存在するが知られていないものなどです。

 

全体が意識的な存在、つまり生き物であると仮定してみましょう。個々の生き物も意識的な存在です。しかし、全体をどのように理解すればよいのでしょうか。人は、人間以外の全てを鈍くて不活性なものと見なしています。神学の中には、神が私たちの消費のためにそれら対象物を創造したと提案するものがあります。神は自分に似せて男性を創造した、これが男性の言い分です。それなら女性はどうなるのでしょうか?彼女は誰に似せて創られたのでしょう?神は自分に似せて男性を創造し、世界は男性が消費するために作られたというのです。その後に続くのは、私たちが心配する環境問題です。世界は私たちが消費するためにあるという、この基本的な神学的概念は破壊的です。男性は神に似せて作られているのだから、男性以外のすべてのものが消費されるべきであり、男性には好きなだけ消費する権利があるということです。

 

 

赤ん坊を除いて、他のすべての生物は、這うもの、泳ぐもの、飛ぶもの、歩くものを含めてスープに入れられ、取り残されるものはありません。原始人も全く同じことをしていましたし、今でもそうしています。ある時、私は飛行機に乗っていて、隣の人が夕食にカニを注文していました。彼の皿の真ん中には死んだカニがあり、その周りには文明がありました。残念ながら、これが私たちの成長です。私たちは全体とは何かということを正しく理解する必要があると思います。

 

混乱は、全体が理解されていない時に起こる

私は個の生き物です。全体もまた生き物です。もしそれが真実であるならば、真実を知らない私によって、間違いなく多くの混乱が引き起こされるでしょう。私は、全体との間にある基本的な関係を知らないので、内側のスペースを楽しむことができません。役者は、自分が個人であることをちゃんと知っています。また、「個人」は自分が演じている「役」ではないことも知っています。ここでは、「私」がその「個人」です。その個の生き物と、全体の生き物の真実を避けて通ることは、私にどんな種類のスペースも休息も与えません。ですから、問題は山積みになってしまうのです

 

どんな役にも問題があります。(私が家で父親であるときも、会社で上司であるときも)問題のない役はありません。すべての役割の問題を1つにまとめると、私が問題になります。実際、私が問題なのです。しかし、私は世界が問題だと思っています。いいえ、私こそが問題なのです。私は誰にとって問題なのでしょうか?私は何より自分自身にとって問題なのです。最大の悲劇は、私が自分自身に耐えられないことです。もし私が自分自身を完全に受け入れることができたなら、思いやりや理解を持つことが容易になります。完全な自己受容があるならば、与えることも容易になります。ここでは、どんなプラス思考も役に立たないでしょう。私は何よりも自分自身を受け入れていないのですから!

プラス思考では、自己受容の無さを取り除くことはできない

プラス思考とは、自分が見たくないものは見ていないふりをすることです。アメリカにはドーナツがありますが、これは私たちのヴァダイのようなものです。ヴァダイのカロリーはドーナツのカロリーに比べれば大したことはありません。ドーナツは大きくて、真ん中に穴が開いています。プラス思考の人が、毎日7個のドーナツを食べます。しかし、彼は太りたくないと思っていて、そのことをとても意識しています。それなのに罪悪感はありません。なぜなら、彼はプラス思考の人なので、罪悪感がないのです。

 

ここでいうプラス思考とは何でしょう?ドーナツには2つの部分があります。一つはカロリーのある部分で、もう一つは穴の部分でゼロカロリーです。プラス思考の人は、カロリーのないドーナツを7個だけ食べたと言うでしょう。マイナス思考の人は、一口食べた後、カロリーが体のどこかに現れてくるのではないかと常に心配してしまいます。プラス思考とは、ドーナツを7個食べるが、ノンカロリーの穴を数えることです。これは「思考している」とは言いません。私たちは、プラス思考やマイナス思考には興味がありません。私たちは、思考そのものに興味があるのです。

私たちが持っているものはたくさんありますし、持っていないものもたくさんあります。しかし、このベースである生き物とは何なのでしょう。もし、私たちがそれを知ることだけに注意を払うなら、完全なる自己受容の可能性があります。ですから、真剣に取り組む人にとって、知的に人生を生きる人にとって、人間としての成長の旅はここから始まるのです。

Talk 4

全ては「与えられているもの」である

知的に生きるということは、自分自身について、自分の周りにある現実についての全てを網羅することです。私が直面している現実を見てみると、一つのことが明らかです。それは、全てのものが与えられているということです。私が生まれたとき、私の親はすでに与えられていました。私には選択の余地がありませんでした。私の子供時代は与えられていました。私には何の選択もありませんでした。物事の仕組み、世界は与えられています。私が生きていくための酸素なども全てが与えられています。私には生体エネルギーが必要なので、食べ物が与えられています。

 

食べ物は植物だけ

この地球上での食料の供給源はただ一つ、他にはありません。食べ物は植物からです。アッデャテー イティ アンナム、私たちが食べるものはアンナ、食べ物です。それは(体の)外で準備されなければなりません。その外とは何でしょうか?私たちのヴェーダは、「植物から食べ物が生まれ、食べ物から人間が生まれる」と言っています。それ以外の食べ物があるとは書いていません。オーシャディーとは草や木の事です。彼らだけが、自然の源から栄養となる食べ物を用意する方法を知っています。

食べ物とは植物だけです。植物でない食べ物はありません。だからこそ、まずベジタリアンと言って、ベジタリアンでないものには否定の助詞「ノン」を一つつけるのです。私はあなたに強調して言いますが、ノンベジタリアンの食事がありますが、ノンベジタリアンの食べ物はありません。実際、ベジタリアンの食事は健康に良いのです。私たちはベジタリアンでなければなりません。肉は誰にとっても良いものではありません。たとえあなたにとって良いものであっても、動物にとっては良いものではありません。もし誰かがあなたにタンパク質について質問するなら、「いったいどこからタンパク質を摂っているのか象に聞いてごらん。馬、ラクダ、サイ、みんなどこから必要な力を得ているのか聞いてごらん」と言いなさい。

 

私はこの事実を述べなければなりません。進化を考えると、ベジタリアンである鹿の方が(肉食動物より)進化しているように思えます。鹿には2つの仕事があるからです。食べ物を見つけなければならないし、捕食者である肉食動物から身を守らなければなりません。食べ物を見つけるために、安全な住処から出てきます。水を見つけなければならないので、水飲み場に行きます。肉食動物はそれを知っていて、獲物を待ちます。これが自然界での生き方です。

 

人間はどうでしょう?彼らはもっと進化しています。自分の面倒を見るだけでなく、自分が生き延びる過程で誰も殺さないようにしなければなりません。もし彼が牛を食べたいのであれば、その牛を家畜にしてはいけません。牛は森の中にいれば良いのです。ターザンのように、森に行って牛と戦わせてみて下さい。ナイフを持たせずに、野生の牛と戦うのです。もし彼が牛を捕まえたなら、それを食べさせましょう。牛が彼を捕まえるチャンスもあります。虎を見て下さい。虎は公平です。銃を持っているはずはありません。屠殺用の武器も持っていません。自分の歯、こっそりと忍び寄ること、スピード、パワー、そして自分の足を使って獲物を捕らえます。獲物には虎から逃げられる公平なチャンスがありますが、人間からはそれが不可能です。公平さとはダルマのことです。私たちは彼らを愚かな動物と呼んでいますが、彼らは愚かではありません、私たちが愚かなのです。彼らは自分の人生を生きています。私たちは彼らを保護することを期待されているのに、彼らを破壊してしまうのです。

 

生き物は他の生き物に頼って生きています。人は 「ナスにも命がありますか? 」と質問します。「ええ、あります。しかし、(逃げなくてもいいので逃げるための)足はありませんよ。」野菜は単細胞で、それは食べる為のものということです。木や植物だけが食べ物を用意してくれるので、リンゴの木は1000個ものリンゴを実らせます。田んぼの苗は1本でたくさんのお米を作ります。

普遍的な価値構造に反しないようにしなければなりません。そのため、私たちの責任は増え続けています。成熟した人は選択肢が少ないものです。彼は選択肢を必要としません。選択肢を必要としないとき、成熟は完了するのです。

食べ物も、地球も、空気も、水も、大気も、他の生命体も、現代社会も、与えられています。宇宙、太陽系、様々な力、強い力、弱い力、引力、電磁力、などの全てが与えられています。ミクロの世界が与えられています。マクロの世界も与えられています。つまり、物質、エネルギー、すべての法則、手段と結果、すべてが与えられているのです。全てが起こり得る可能性も与えられています。新しい現象が現れます。自然界では、新しいものが現れ、古いものが消えていきます。津波が起こる可能性は常にあります。それは起こります。

自然そのものが、以前は可能性があったものを実現することができるのです。細菌が介入することで、新しいものが生まれることがあります。変化をもたらすことができます。人間には常に新しいハードウェアやソフトウェアを作る能力があり、そのための資源が与えられ、必要な材料がすべて与えられています。

 

ブッディ、つまり知性が与えられています。この世の中に生まれてから、自分の中にブッディを見つけられず、後からブッディを獲得したというわけではありません。実際、私たちは少なくとも時折、ブッディを使おうとしてきました。つまり、ブッディは与えられたものなのです。あなたが探求し、知ることができるということは可能性であり、それは与えられています。あなたは感情を出すことができます。感情は重要な現実であり、それは与えられています。あなたは愛することができ、憎むことができます。あなたは憎しみを中和することができます。嫉妬心を中和することができます。これらの可能性はすべて与えられています。

ヴァシー、アートマヴァーン、ユクタハなどの素晴らしい言葉がありますが、これは(イーシュワラと)共にある人、自分の人生の運転席にいる人、自分の人生を徹底的に管理する人のことです。可能性を活用しなければなりません。それは自分の意志で始めるものなのです。

 

情緒的な成長への取り組み

ある種の出来事は自然に起こります。赤ん坊は大人になります。赤ちゃんは生まれます、ジャーヤテー。それは存在しています、アスティ。アスティとは、生きているという意味です。生きているということは、ヴァルダテー、つまり成長するということです。やがて、それは大人に成長することを意味するヴィパリナーマを得ます。それはパリナーマ、つまり変形ではなく、ヴィパリナーマです。あなたは何の努力もしなくていいのです。あなたは何もしなくても大人になり、母親になる可能性も父親になる可能性もあるのです。アスティはずっと続きます。辞書の原本を書いたヤースカは、「ニルクタ」の中でこの6つのバーヴァ・ヴィカーラ、変化を引用しています。ヤースカは、結婚やその他のサムスカーラ(儀式)については語りませんでした。ヴィパリナーマの後、彼はアパクシャヤ、衰退について語ります。ゆっくりと衰えていくのです。

 

通常、本を読むときには腕の長さで本を持ちます。しかし、腕の長さが足りなくなり、さらに伸ばすことができなくなると、眼科医に診てもらうことになります。これをアパクシャヤと呼びます。これらはすべて自然に起こることです。シャーストラはこれを認めています。しかし、情緒的な成長は自然には起こりません。成長の可能性は与えられていても、自分から率先して行動しなければなりません。

自己受容の可能性が与えられている

完全な自己受容の可能性があるのは、自己受容がすべての動物にあるからです。全ての猿は猿であることに満足しています。私たちは、自分たちは猿から進化したと言います。このことを猿たちに言ってはいけません。彼らはあなたを笑うでしょう。アメリカで一旗あげようと朝早くからアメリカ領事館の前に立っている猿はいません。インドのサルはインドにいて幸せです。

 

私は自意識があるがゆえに、自己批判をしていると知ることは重要です。私が自己批判をして、その判断が自分では受け入れられないことがわかったとき、私はどうやって世界を受け入れるというのでしょうか。とはいえ、自己受容は可能であり、それは私の自発性によって起こります。この自発的な始まりとは、認識上のもの、つまり見方の変化が始まる事です。自分の「無意識」に対処することが認識上の変化であるように、これも認識上です。これは(イーシュワラを考えに持ち込んだ)宗教的なレベルです。私はこれをスピリチュアルとは呼ばずに、宗教的なものだと考えています。このレベルでは、個々の生き物は独自の現実を持ち、(イーシュワラとの)関わりの現実を持つ事を無視してはなりません。イーシュワラの中に生かされるという関わりの中では、最初にある程度の自己受容があり、他のすべて(完全な自己受容)はその後にやってくるのです。

相対的な自己受容の後には、全体的な自己受容というものがあります。まず、相対的な自己受容をしなければなりません。それは私の主体性によるもので、自然に起こるものではありません。一旦ハンドルを握ったら、私は運転しなければなりません。つまり、目的地に到達するために、与えられたすべてのものを使わなければならないのです。ここでも、私には知る能力と判断する能力が与えられています。しかし、その理解は不十分であり、その結果、判断が間違っていることもよくあります。私は率先して知的に生きなければなりません。つまり、人生でさまざまな役割を果たすように求められた人、ベーシックパーソンである事を理解しなければなりません。その存在の意味が完全に理解され、その存在である自分に可能な内側のゆとりを楽しむことができるなら、私はこれらすべての役割を楽しむことができます。

 

talk 5

「与えている人」は「与えられている物」として現れている

すべてが与えられていることを理解すると、与える人はいるのかという自然な疑問が生まれます。与えられている物は、あなた自身の肉体のように知的に組み合わされているので、この質問をしないわけにはいきません。この議論は正しく理解されなければなりません。

 

 

どんな生物でも、知的に組み合わされています。ミクロの世界である原子は、知的に組み合わされています。この肉体のようなマクロな有機体は、それぞれが固有の機能を持つさまざまな器官から構成されているという点で、知的に組み立てられています。しかも、それは正確に調整されていて、それぞれの決まった配置があります。

 

 

知的に物が組み合わさるには知識が前提

人間が作った機械も、クモが作った巣も、ミツバチが作った巣も、ハタオリドリが作った巣も、肉体も、知的に組み合わされたものはすべて知識を前提としています。ハタオリドリがあのような巣を作ることができるのは、適切にプログラムされているからです。全体の仕組みが知的に組み立てられているのです。

 

それゆえ、私たちはこの仕組みのすべてを理解しようとします。私たちは部分的な理解をしているので、さらに理解しようとし続けます。科学者が研究を行うとき、これは余計だとか、あれは余計だとは考えません。なぜこれがそこにあり、なぜあれがそこにあるのかを理解しようとします。これとあれには目的があると考えているのです。

 

 

結果を想像しないで知的に組み合わせることはできません。料理ですら、あなたは初めに計画を立てます。この計画のことをタパスと言います。あなたは何を持っていますか?何ができるでしょうか?時間はどのくらいありますか?誰が食べますか?これら全てが考慮されなければなりません。

 

料理でさえも計画、つまり、思い描くことが必要です。ですから、スルシュティ、つまり創造と言うからには、 はっきりと作品を思い描けること、タパスを前提とします。これは一つの理解の方法です。作品をはっきりと思い描いて与えている人がいます。それは誰ですか?ここである理論、つまり一歩先に進むための理論の展開が助けになります。

 

 

全世界の作者は、全知である

 もし誰かが何かを作ったら、その人にはその知識があることがわかります。知識なしに何かを作ることはできません。ジニャーナとシャクティ、つまり知識と技術は、スルシュティ、創造には必要不可欠です。ただのポットでさえも、そこにはポットの作り手がいて、その人は作るものの知識と技術を持っています。私たちはこのことを広げて、世界にも同じように見ることができます。

 

 

 

この理論はシャーストラが言っていることと一致します。ガタ カルター ガタジニャハ、ポットの作り手はポットの知識を持っています。そこには技術も含まれます。さあここで、この理論をサルヴァッスャ カルター サルヴァジニャハ つまり、全てを作り上げた人は全ての知識を有する、という理論に広げることができます。私たちが、サルヴァッスャ カルターと言う時、ここで与えられているもの全て、つまり、私たちに知られているものと知られていないもののことを指します。「全て」の知識を有するものをサルヴァジニャ、つまり全知と呼びます。

 

 

どこに全知はいるのか?

 ここまでは理解しやすく簡単ですが、難しいのは、この質問の答えを求めるときだけです。「どこにサルヴァジニャ全知はいるのか?」私たちはどこにも全知の人を見つけられません。どんなに知識を持った人もさらに質問をすると行き詰まります。あなたは知識のある人に質問します。

 

「これはなんですか?」

「これは花です」

「何の花ですか?」

「薔薇です」

「何の薔薇ですか?」

「赤い薔薇です」

「なぜ赤いのですか?」

 

知識はここで止まります。私たちの持っている全部の知識を持ってしても、この質問に答えられません。このように、この地球上に全てを知っている人を見つけることはできません。みんなアルパジニャ、ほんの少ししか知らないということです。だから専門家がいるのです。あなたの身体は沢山の医療専門家に振り分けられます。神経科医がいて、腎臓科医がいます。皮膚を治療する皮膚科医がいます。彼の知識は真皮についてです。文字通りの意味です。眼ひとつとっても、検眼士、眼科医、網膜科医と多くの専門家がいます。

 

 

神が天国にいるという概念は非理論的

この地球上のある種の人々は、全知である作者に天国という安全で遠い場所を与えました。これは彼に場所を与えているということです。あなたが場所を指定すると、その人は特定の場所に配置され、当然、その人自身の身体が必要になります。ここでは沢山の間違いがおかされています。人は質問に答えられる限り答えますが、答えられないところでは話をはぐらかします。

 

 

「誰がこの世界を創ったのですか?」

「神様が創ったのさ」

「どこにその神様はいるのですか?」

「彼は天国にいるのさ」

「誰が天国を創ったのですか?」

「神様が創ったのさ」

「では、天国を創る前は彼はどこに居たのですか?」

「それが神様のミステリーというものさ」

 

これが私たちが考え(が及ば)ないエリア、デッドエリアです。私たちは神とは何か?という問いに対してまだ完全な答えを出せていません。この問いを解決することなしに、私たちは「神がどこにいるのか?」という質問はできません。「神とは何か?」という問いにこだわらなければなりません。もし、私たちがこの問いを繰り返すなら、「全知である作者が、この世界を創るときに使った世界の材料はなんですか?」という問いをしないわけにはいきません。

 

 

この世界を作っている材料

ある人は「神が何もないところから、あなたも含めたこの全世界を作り出している」と言います。何もないところからは何も作り出すことはできません。何かあるところからのみ、何かは作り出すことができるのです。ここで言う何かが、何なのかはまた別の探求です。

 

 

ウパーダーナ・カーラナ、つまり物質的源と呼ばれる、何かしら材料「X」があるはずです。作者、つまりニミッタ・カーラナは、サルヴァジニャ(全知)であり、サルヴァシャクティマーン(全能)です。つまり、作者とは知的源です。物質的源は、作者から独立することはできません。

ここで、私たちのシャーストラは恵みです。私たちはこの恩恵を文化に見ることができます。私たちの言語にも、そして、全ての現象や世界やお金や知識など全ての事に対する私たちの態度にも見ることができます。私たちの態度は感謝(敬い)の表れであり、この知恵はいつも宗教として浸透しているのです。宗教と知恵は、私たちの文化の様々な形に現れているのです。

 

作者と材料はひとつ

作者と材料は離れた別のものではありえません。空間と時間はジャガット(世界)の一部です。私たちの祖先たちはこのことをはっきりと繰り返し言い続けてきました。近年の物理学はこの事実を裏付けています。時間と空間が絶対的なものであるというのはまさに間違った言い分です。今や、そのような概念はすたれています。

 

 

材料が空間や空間に隔てられたどこかに横たわっている、などと言う事はできません。空間それ自体がまだないからです。作者と材料が別の離れたものではありえません。それらは一つの同じものです。ある観点から、私たちはその人を材料の源と呼びます。また別の観点からは、全知の作者と呼びます。

 

夢というモデル 

夢の体験は、作者と材料が一つの場所に存在しうることを知る助けとなります。寝ている時、人はジャガットを体験しませんし、ましてや個人という観念すらありません。ヴェーダの中に記されている一節があります。アンダハ アナンドォ バヴァティ 盲人は、もはや盲目ではありません。これより良い表現がありますか?盲人はもう盲人ではないのです。事実として、盲人も申し分のない視力がある人も熟睡中は何も見ていないという同じ体験をしています。

 

さあ、眠っている人が半分目覚めます、これはつまり、その人が自分の考えに気がついている状態のことです。その状態で彼は夢を見ており、その夢が続く限り、彼にとってその夢はリアルなのです。夢の中で、彼は飢えています。3日間何も食べていない体験をしています。彼は山へ探検にでましたが、崖から落ちて脚を骨折しました。周りには誰もいません。飢えて横たわっています。この経験はリアルです。

もし誰かが彼を追いかけて、彼が逃げているなら、それもリアルです。夢が覚めるまでは、夢の中で起こっている全てはリアルなのです。

 

一つだけ良いことがあるとすれば、あなたが知らないことを夢で見ることはできません。できますか?できないですよ。なぜなら、何かの夢を見るには、その何かを考えなければならないからです。あなたが何かを思い描くためには、その何かを知らなければなりません。知識と能力があってこそ、自分の世界を作ることができます。

 

 

あなたが太陽を思い描くと、太陽は空間と時間と共にやってきます。これは真実です。これが創造というものです。あなたには、太陽、地球、木、空、そして人々を創ることができる力を持っているのです。  

 

あなたは夢の世界の作者です。あなたは他の誰かから夢の世界を作る材料を借りたりはしません。あなたは自分の外側でそれを見つけたわけではありません。あなたは全くもって意識的な存在であり、作者であり、物質的原因(材料の源)なのです。あなたは世界を創っただけではなく、世界となったのです。

 

 

夢の中であなたは全てを創ります。空間、時間、太陽、など…。事実として、あなたが空間であり、時間であり、太陽であり、地球であり、木々であり、鳥達であり、そして全ての人々です。あなたはあなたの体も自分自身で創ります。全てがあなたです。あなたの知識が夢の世界の形に現れているのです。これは真実です。あなたは、とても身近な実感として創造人と材料の源が分かれていないことを知ります。

 

ちょうど夢ではあなたが創造人でありながら、材料そのものであるのと同じように、もし全知全能のイーシュワラがいるなら、それはこの世界の創造人です。したがって、イーシュワラが全ての材料の源です。

 

全てはイーシュワラの現れ

 

私たちは、この世界が知的に組み合わさってできているという観点から見た時、私たちは創造人のことを原因の源と呼び、その人は全知であるイーシュワラです。すでに現れたもの?を見ても、行き渡っているという観点から見ても、材料の源であるという観点から見ても、全ての現象はイーシュワラです。全ての図式、太陽、星、銀河、空間、時間、全てがイーシュワラの現れなのです。

Talk 6

 

ジャガットの様々な秩序であるイーシュワラ

私は、「個人は日常生活で様々な役割を果たす意識的な存在である」と言いました。人は、両親を基準にして息子や娘であり、子供たちを基準にして父親や母親であるというように、他の役割もまた状況によって移り変わります。この「個人」とは誰のことですか?彼または彼女は基本的には「全体」に関係しています。私達はこの「全体」のことをNārāyaṇa、Parameśvaraと呼びます。

 

あなたはイーシュワラを迂回することはできない

あなたは、個々の意識的存在として、このjagat:世界の形で現れていて全知である神と関係しているという事実を認識することで、この関係を確立しなければなりません。私たちは、この個々の意識的な存在をbhakta、帰依者と呼びましょう。この関係を認識している人がbhaktaです。この自己認識の中には、私たちが世界と関わりを持つ上で必要な隙間(ゆとり)があります。

 

あなたはイーシュワラを避けて通ることはできません。人々はイーシュワラを避けて通りヴェーダーンタを理解したいと思っています。しかし、それはうまくいきません。これまでもそうでしたし、これから先も決してうまくいかないでしょう。実際には、jīva;個人とイーシュワラ;全体の間には方程式があります。あなたがこの関係を認識した時、あなたは帰依者で始まり帰依者で終わります。あなたの身体、考え、感覚を含むジャガットの形で現れている、全体であるイーシュワラの事実をあなたが認識していれば、基本的にあなたは帰依者です。全体というのはあなたの心も含まれています。ですから、あなたが息子であるならば、あなたは帰依者の息子であり、あなたが父親であれば帰依者の父親であるということになります。これが事実です。

 

p54~

イーシュワラとの関わりには選択の余地がない

 

知的に生きるということは、ありのままを認識することを意味しています。私はイーシュワラを考えに持ち込むことを選択だとは考えていません。あなたは息子か娘であることに選択はありますか?あなたは、息子か娘のどちらかです。あなたが「私は結婚したくない、独身のままでいたい」と言うのは選択です。同様に、あなたは「私は息子になりたい、娘にはなりたくない」と言うことはできても、「息子にも娘にもなりたくない」とは言えませんね。あなたは色々なことを願うことができますが、息子か娘のどちらかである事には選択の余地がありません。あなたは息子ですし、それが現実なのですから、選択の余地はないのです。同様に、あなたが帰依者であることにも選択の余地はありません。

 

あなたはありのままを受け入れます。ありのままとはイーシュワラのことです。イーシュワラとは何なのでしょうか?もし、あなたが全体であるイーシュワラを考えに持ち込まないのなら、あなたの人生で持っている全てのものといえば、父親として、息子として、その他の様々な役割における問題が山積みになっているだけです。あなたは沢山の役割を演じなければなりませんし、それらの役割は全て問題を抱え込んでいます。あなたが基本的に帰依者であることを認識している場合は、あなたは帰依者である父親、帰依者である息子、帰依者である兄弟…と続きます。帰依者というのはクッションです。帰依者と帰依者が演じている役割の間にある隙間です。これがあなたに必要なものです。帰依者であることによってこの隙間を楽しむことができます。これは実際にやってみて本当に役に立つものです。宗教的な実用主義です。

 

帰依者は全ての栄光にイーシュワラを見ます

 

クリシュナ神は、ヴァガバッドギータの中で帰依者の実在を断言するために、vibhūti-yogaと呼ばれる章(10章)の全てを捧げており、その中で彼はこう言います。「*あなたが目にするどんな物や生き物にも、何かしらの栄光や満足感があり、力がみなぎっていますが、それらの全ては私の完全な栄光の輝きなのだと知りなさい」あなたがこの世界で見る全ての顕現はイーシュワラの栄光です。これを認識して欲しいのです。人間の目、あるいはどんな生き物の目であっても、青い目、茶色い目、黒い目、分裂した目、梟の目、カブトムシの目、カラスの目であれ、一対の目があるところにはどこでも視力があります。視力はイーシュワラの栄光です。どこであれ、耳があるところには聴力があります。これは全てイーシュワラの栄光です。これをSamaṣti:全体と呼びます。Samaṣtiはイーシュワラのことです。

*यद्यद्विभूतिमत्सत्त्वं श्रिमद्वर्जितमेव वा । तत्तदेवावगच्छ त्वं मम तेजों∫शसम्भवम् ।।(

Bhagavad Gītā10.14)

whatever entity has glory, has wealth, or is indeed powerful-that itself, may you know, is born of a fraction of my power .[no one is the author of any glory, so arrogance or jealousy regarding these glories is baseless. Knowing this bring relative freedom.]

 

p,55

 

自分の人生を知的に生きる為には、基本的にあなたは帰依者であることを明確に認識しなければなりません。帰依者として、他の人の顕現に、他の人の栄光に、自分自身の能力にイーシュワラのvibhūti:栄光を認識します。

 

人間の声が変調されていない音を出すと、「ア」という音が出ます。したがって、クリシュナ神は「*私は、全ての音節と文字の基本的な音「ア」です」と言います。知的に生きるということは、「何が何たるか」を理解する事を意味します。「何が」とは、イーシュワラの栄光に他なりません、個人的な栄光はありません。

* अक्षराणामकारो∫स्मि(Bhagavad Gītā10.33)

I am [ the initial ] letter [or simplest and most common sound ] “a”

 

 あなたの中の帰依者は二段階の反応を引き出す

 

自分が帰依者であるという認識は、あなたが演じている役割とそれにまつわる問題があまりに圧倒的な為、現実の生活の中で自分が果たす役割になかなか浸透しません。帰依者とは単なる名前になってしまいます。イーシュワラの栄光が全てのものに認められるということは、あなたの両親や、あなたが関わりを持つ全ての人を含むジャガット全体を、イーシュワラの現れ以外の何物でもないと見ることを意味しています。その認識があなたの相互関係にゆとりを与えます。あなたと関わりを持つ人は、彼や彼女のバックグラウンドと共にあなたのところへやってきます。あなたがそのバックグアウンドを受け入れる時、あなたの役割において二段階の反応があり、そしてあなたの中に帰依者、意識的な存在がもたらされます。もし、一段階の反応をするなら、帰依者は日食のように姿を眩まします。ですから、ここでは二段階の反応がとても重要なのです。

 

p,56

 

バックグラウンドを歓迎する

 

二段階の反応では、あなたは一歩引き下がり、そして背景を持つ彼や彼女である相手を見ます。あなたはその人の背景の全てを知らなくて良いのです。その必要性はありません。あなたがセラピストでない限り、相手は自分の背景をあなたに話すことはありません。ましてや、背景は無意識の中に埋もれているので、自分の背景を知り尽くしている人はいません。背景のない人なんていません。そのことをあなたは知っておくべきです。なぜ彼はこんな振る舞いをするのか、どうして彼女はこんなことを私に言うのか、なぜ彼女は私がすでに与えたそれらの事実に気がつかないのか、どうして彼女はこの事に反応しないのか、なぜ彼や彼女は私に多くの事業計画を課すのか? そうです、これらはすべて背景があるので存在しているのです。

 

もし、あなたが背景の存在を認識しているのであれば、その時あなたの反応は単に何を言われたとか何をされた、というようにはなりません。その背景の存在を自分なりに解釈した上での対応となります。この知識があるからこそ、思いやりのある人、シンプルな人になれるのです。思いやりはあなたから始まります。その時だけ、他人への思いやりが生まれるのです。あなたが自分の振る舞いも背景から来ているいると見ることができれば、あなたは自分に優しくなれます。あなたはどんな感情が来ても歓迎しますし、うまく扱うことができます。あなたはあなたの感情をうまく扱えるようになります。

 

p57

 

「願望」と「怒り」は、vega:強い力を生み出します。なぜギーターはこの力について言及しているのでしょうか?ギーターはkāma:願望とkrodha:怒りは無くならないけれど、それらのvega:強い力は管理することができると認識しているので言及するのです。願望や怒りによって放出される力を何とかすることができます。これは、願望の魔法にかからないということ、怒りの魔法にかからないということです。あなたはあなたの怒りを管理することができます。怒りだけでなく、他の感情も管理する必要があります。自分の背景の存在を認めることができれば、他の人の背景の存在も認めることができます。二段階の対応は、自分も他人も参考にしながらです。

 

一段階の反応はajñāna:無知から生まれるのに対し、二段階の反応は知性、つまりイーシュワラ意識から生まれた自意識から生まれています。どのように?イーシュワラが存在するからこそ、あなたはイーシュワラをあなたの人生に引き入れるのです。存在するものを認識するようになります。あなたはすべての重要な分野でイーシュワラを認識します。全知であるイーシュワラを認識するのはあなたが全知でない限り不可能です。どのようにして全知とは何かを知り得るのでしょう?あなたは何が「全て」なのかも知りません。全知を認識するというあなたの疑問はどこにありますか?それでもなお、あなたはイーシュワラを認めることが出来ます。samaṣṭi:全体を認めるだけで良いのです。どこであれ、個人の栄光があるところにはsamaṣṭiがあります。あなたが個人の栄光の中に自分を閉じ込めるなら、それは井の中の蛙のように生きていることになります。どこであれ目があるところには視覚があるというシンプルな事実の中に、samaṣṭiの栄光を認識することができます。どこにだってこれを認識することが出来ますよね。

 

p,58

 

例えば、肝臓のような個々の器官という観点からもsamaṣṭiを見ることができます。私たちのśāstra(聖典)には、肝臓を司るdevatā:神はいませんが、samānaと呼ばれる消化器系全体を司るvaiśvānaraという統括神がいて、それに肝臓も含まれています。同様に、prāṇa:呼吸器系やvyāna:循環器系などの他の組織のdevatā s(統括神達)もあります。全ての臓器と腺はこれら組織の下にあります。

 

食べる前には儀式的な祈りをします。この祈りの中で人は「prāṇāya svāhā」と言い、呼吸器系のdevatāであるprāṇaへ食べ物を捧げています。同じように、食べ物は他のdevatāへも儀式的に捧げられます。祈りはbrahmaṇe svāhāで終えます。Brahmaṇeとは、あらゆる生物に行き渡っている生理的な法則の形で顕在化しているブラフマンのことを意味します。Svāhāは供物、すなわち奉納のことです。これは私たちのNamaskāra:尊敬を捧げる際の供物です。物事が機能しているということは、イーシュワラの姿であるひとつの秩序があるのです。生き物の体があるところではどこでも、生き物の体を生かすための秩序があります。その秩序の姿をしたイーシュワラに、私の尊敬を捧げます。実際に、私たちのśāstraでは、prāṇaという形で現れているイーシュワラを*sūtrātmanと認識しています。

 

(*生きとし生けるもの全ての5つのプラーナのレヴェルで現れている全体の人イーシュワラの名前を、スートラ・アートマーと言います。生きとし生けるものの肉体、つまり、ストゥーラな宇宙のレヴェルに現れている全体の人イーシュワラの名前を、ヴィラートと言います。)

 

「知的に生きる」とは、この秩序を認識することです。私たちはイーシュワラをとてもたくさんの秩序として認識することができます。物事は確たる秩序の中に存在します。誰も報いを受けずに秩序を超えることはできません。例えば、火に触れると火傷をしますが、火に「なぜ焼いたのか」と聞くことはできませんよね。もしあなが聞くなら、こう返ってくるでしょう。

「私の指を焼きましたか?」

「はい」

「なぜ焼いたのです?」

「私はあなたの指を焼いてはいません」

「あなたは私の指を焼いたと言いましたよね?」

「はい、私はあなたの指を焼きました」

「それなら、なぜ私の指を焼いたのです?」

「私はあなたの指を焼いたりしていません、さっき言ったでしょ」

「あなたは言っていることがころころ変わるので、冷風と熱風を吹けるということですか?」

「いいえ、私はいつも熱風だけを吹いています。」

「でも、あなたは私に2つの答えをくれたではありませんか」

「私はあなたの指を焼いてはいません、私はあなたの指を追いかけてはいませんから」

「でもやっぱり、あなたは焼いたじゃないか!」

「あなたが私に触れたからです。私の仕事は何であれ私に触れるものを燃やすことです。もし必要な時間だけ私に触れたら、燃やしてあげますよ。」

これが秩序というものです。物事がどのように機能しているかということです。私たちは、そこにある法則、様々な手段と結果、そしてそれらの関連性を理解しています。私たちは物事の間にある因果関係を理解します。私たちは行為とその反応の間にあるつながりを理解します。このようなこと全てが様々な秩序の下にあります。

 

p60~

 

人間の声だけは特定の音を出すことができます。子供の頃からある言語を話す人は、あるアクセントがないと他の言語の単語を作れないように見えますが、誰でもどんな言語でもどんな文字でも発音させることができます。人間の声の発声学を知っているなら、どんな音も出すことが出来ます。サンスクリット語にはこのような地図があります。それぞれの文字を発声する声帯の部位と、その文字を発声する為に必要な努力の種類が示され、これら全てが書き留められています。これが法則というものです。これは誰か個人の創造物ではありません。創造とはこのようなものです。

 

子音は母音の力を借りないと出せません。母音は前にくるか後にくるかのどちらかでなければなりません。あなたはakと言うことができます。あなたはkaと言うことができます。あなたはikと言うことができますし、kiと言うことができます。しかし、kとだけ言おうとしてみてください。喉につっかえるような感覚があるのがわかるでしょう。それが子音です。独立して発音できるのは母音だけですが、もう一つの母音、英語では二重母音と呼ばれる複合母音があります。母音の”a”と”u”を足すと”o”になります。ある人は”om”を”aaauum”と発音しますが、それは間違いです。”om”をこのように発音するのはイーシュワラに反することです。もしあなたが”aaauum”と発音するなら、それは法則に背くことになります。あなたはイーシュワラが現れた姿である法則に従わなければなりません。これが知的に生きるということです。

 

ここにも法則があります。全てのakṣara:音節に、全てのvarṇa:文字にも、adhiṣṭhāna-devatā:統括神があります。私たちのイーシュワラに対する感覚、イーシュワラに対する認識は徹底しています。私たちは神が一つ(one God)だととは言いません。私たちは神しかいない(only God)と言います。従って、私たちは多くのdevatās(神々)を持っているのです。イーシュワラを一つのsamaṣṭiという観点から見るとき、彼はdevatāになります。私たちは、彼の顕現である様々な現象から、彼のことを全体に行き渡っている総合的な存在(total being)として理解しなければなりません。たった一つのイーシュワラが様々な姿形を装って顕現しているのです。

 

p,61~

 

物理学では、物理学の秩序として現れているイーシュワラを学びます。物理的な法則は宇宙全体をカバーしています。物理学という学問において私たちが見ているものは、宇宙との繋がりであるadhibhūtaです。そして、私たちが受け入れているものは、機能の背後にある神のことadhidaivaです。これがイーシュワラの現れた姿です。

 

更に、イーシュワラは様々な生命の姿形として現れているものであり、生物学的な秩序として理解することができます。私たちが生物学を学ぶ時、私たちはイーシュワラを学んでいるのです。物理学でも生物学でも、あるいは他の知識の分野でも、原理を理解するときには、ある種の喜びがあります。それをvidyānanda:知識の喜びと呼びます。理解する時、知る時、私たちは全知で意識的な存在であるイーシュワラと調和しています。その特定のvidya:知識を基準にして、私たちは無知から自由です。

 

私たちは、いかなる知識も世俗的なものとは見なしません。したがって、物理学であろうと他のものであろうと、私たちは許しを請わずに本を踏むことはできません。全てのvidyā:知識は神聖なものです。それはイーシュワラです。あなたが医学を勉強する時、あなたは生理学的な法則として現れているイーシュワラに触れることになります。これが私たちが本物のvaidya:医者をLoad Nārāyanaと呼ぶ理由です。

 

p,62〜

 

イーシュワラのヴィジョンを理解して自分のものにすることは難しくはありませんが、簡単なことでもありません。これは知的に行わなければなりません。あなたがidaṁ sarvamはイーシュワラですと言う時、sarvam”全て”はあなたの肉体と考えと五感の複合体も含んでいます。ですから、このヴィジョンには個人としてのあなたが含まれている事は明らかです。イーシュワラは、あらゆる方法であなたに浸透し、あなたを支えてるはずです。ですから、イーシュワラは信仰の対象ではありませんし、理解する為の対象でもありません。なぜなら、彼は主体と客体の両方だからです。イーシュワラのヴィジョンは主体に行き渡り、客体にも行き渡っています。イーシュワラは全てに行き渡ています。

 

このヴィションを私たちの日常に取り込む為には、過度に単純化せずにイーシュワラを一般的な秩序に置き換えて考える必要があります。全てがイーシュワラであるということから、その「全体」というヴィジョンはたくさんの秩序の数々に振り分けられます。それはちょうど、大学で違う科目を勉強し、異なる規律を学ぶように、ここでも、イーシュワラについての知識を取り込む為に必要な様々な秩序に振り分けられます。物理的な秩序、生物学的な秩序、生理学的な秩序をカバーしています。それは一つの全体であり、秩序に関して理解する為の一つの単体のヴィジョンです。

 

私たちが評価しなければならない非常に重要な秩序は、心理学的な秩序です。心理学は現代のテーマです。それは成長しているテーマであり、非常に議論されています。同じ問題に直面しても人それぞれ見え方が違うからです。しかし、私たちにとっては十分に理解されたテーマです。私たちは、躁病、うつ病、統合失調症などの大げさな言葉は持ち合わせていませんが、健康的な生活を送るために必要な人の感情を十分に理解することはできます。

 

p,63〜

 

バガヴァッドギーターの50%は心理学を扱っています。もし私たちが、rāga;好き、dveṣa;嫌い、kāma;願望、krodha;怒り、mātsarya;嫉妬、lobha;貪欲、mānitva;高慢さ、dambhitva;虚栄心などの心理学的用語を除いたとしたら、ギーターはとても小さな本になります。

 

イーシュワラとしての心理学秩序を理解することは、その人の背景とその結果を理解するのに役立ちます。背景を受け入れるとき、心理学的な秩序、イーシュワラの秩序を受け入れます。ですから、誰もがそのままで大丈夫ということです。

 

全ての感情をイーシュワラとして歓迎する

 

あなたは感情を歓迎しますが、自分の感情のために他人を犠牲にしてはいけません。あなたは感情に上手く対処します。あなたは、あなたを含む全ての人の背景を形成している心理学的な秩序の形でイーシュワラを認識しています。あなたは今、全ての感情においてイーシュワラと繋がっていることを認識できます。あなたが心理学的な秩序にイーシュワラを認識しなければ、あなたはイーシュワラから離れてしまいます。バガヴァッドギーターの中でクリシュナ神は「心が私と調和している人でありなさい」と言います。ここでいう心とは感情を意味します。このギーターの文章は、イーシュワラと共にある心理学的な秩序を理解することによって、よりよく理解することができるようになりました。全ての感情はその秩序に従って現れた結果です。感情はあなたをイーシュワラから隔てるものではありません。隔てるという文章までもが秩序の中に含まれているのです。それはイーシュワラの秩序に従ったものです。

 

もしあなたが嫉妬や憎しみ、見捨てられた感、孤独感に慣れているなら、それはあなたがそれを普通だと思っているからです。それは普通のことではありませんが、想定内です。あなたはこれらの感情をすべて整えることができ、これらを健康にして、精神的に養うことができます。イーシュワラを受け入れた瞬間、彼は心理的な秩序の形であなたを祝福します。特定の感情がある時、それを歓迎します。その感情が思いやりの心になります。

 

思いやりはとてもダイナミックな感情であり、イーシュワラの手によって養われたように自分自身を見ることができる感情です。今、あなたは思いやりの窓から他の生物を見ることができます、世界全体を見ることができます。あなたは手を差し伸べ、あなたができる事をするのです。愛は思いやりの基盤となる感情で、ダイナミックにあなたが人々に手を差し伸べるのを助けます。思いやり以外に、高度に成熟した人を特徴づける感情はないと思います。

 

 p,64~

 

思いやりの心を持って行動しなければならない 

 

成熟した人とは、思いやりのある人です。その人は自分自身に対して思いやりのある人なのです。自分を大切にするだけでいいのです。あなたは自分を大切にすることなしに他人を大切にすることなどできないというのが本音です。思いやりを発見する為には、思いやりの心を持っているかのように振る舞う必要があります。

 

恐水症の人が水の中に入らないとします。任命された水泳コーチが水に入るのを待っています。コーチは「さあ、プールに入って」と言います。その人はコーチと言い合いになります。 

 

「泳ぎ方を知らないのにどうしたら水に入れるというのですか?最初に泳ぎを教えてくれたら 水の中に入りますよ」

(コーチ)「水に入らなければ、どうやって泳ぎを教えたらいいのですか?」

「泳ぎを知らないのに、どうやって水に入れるというのですか?私は水に入れるようになる為に泳ぎを教わろうと思って、あなたを雇い入れたのですよ。私は恐水症なんですよ」

 

 彼を水に入れる以外には方法はありません。彼は浅瀬に入り、コーチは言いました。「今、泳ぎなさい」。その人は論じます。

 

「どうやって泳げるのですか?私は泳ぎを知らないのです」

(コーチ)「私がやっていることをそのままやって下さい」

「あなたは泳いでいます」

(コーチ)「そうですよ。あなたも泳げますよ」

「しかし、私は泳ぎを知らないのですよ」

(コーチ)「さぁ、泳いでいるように振る舞ってみて下さい」

「泳いでいるかのように?!」

(コーチ)「そうです!泳ぎを知っているかのように振る舞いなさい。私のように振舞ってみなさい」

「なんと!そしたら何が起こりますか?」

(コーチ)「そこで初めて、あなたは泳ぎを学ぶのです」

 

p,66~

 

泳ぐことを知っているかのように振る舞うと、自分が泳いでいることに気がつきます。真似事でいいから、やってのけなさい。他に方法はありません。水泳は泳ぐことでしか学べません。自転車に乗ることを学ぶには自転車に乗ってみることだけです。車の運転も『L』マークを車の正面と横と後ろにつけて、道路で運転することによって学びます。『L』の意味は「私を一人にして」です。笑)あなたは道路で一番安全な人です。みんな、あなたを一人にするでしょう。あなたはガレージに座って車の運転を学ぶことはできないのです。

 

ですから、あなたは与えることで成長していきます。何かにしがみついている時は感情的になってしまいます。イーシュワラは遠くに行ってしまいます。イーシュワラが認識されることは不思議ではありませんが、イーシュワラから離れて自分自身を保つことができるというのは不思議なことです。本当に、それは不思議なことで、誰もイーシュワラから自分を遠ざけることはできないのです。思いやりにはイーシュワラが居ます。あなたはあなたの人生にイーシュワラをもたらす為に、思いやりのある振る舞いをします。

 

大げさに心理学とまで呼ばなくても問題点はあります。子供はどうやって生きていけばいいのかの手がかりもなく、自分の力で生きていく能力もなく生まれてくるので、このような問題は避けられません。子供は生き延びようとする本能を持っていますが、パニックを避けることができません。パニックがこの意識的な考えから遠ざけて保たれていなければ、子供は死んでしまうでしょう。心理学的な法則として顕在化しているイーシュワラは、後で処理されるように意識的な心の表面下に、パニック、痛みや恐怖をしまっておきます。これは子供を救うことを意味しますが、永遠にそこにしまっておけるということではありません。残念なことに、潜在意識にしまわれた未解決の痛みは子供の人生だけでなく、大人の人生を支配しながら、常に生存者を作り出しています。子供のパニック、つまり潜在意識が処理されず、対処されないままである限り、その人の人生を支配することになります。ですから、ブッディ:知性というのは潜在意識に対処するために率先して行動するために与えられています。シャーストラ:聖典が与えられ、思考能力も与えられています。私たちの経験は意識の下には何かがあるという事を理解する為の助けになります。

 

p,67~

アルジュナの発言に対するクリシュナの検証

ギーターの中でアルジュナが「私の考えは掻き乱れている」と言っている事を見つけることができます。彼は「考えが掻き乱されている」とは言っていませんでした。彼は「掻き乱れているのが考えである」と言いました。これを発言したアルジュナは並の人ではなく、英雄でした。成功し、両手利きで、沢山の武器を手に入れて、そして、ロード・シヴァと共に無敵のミサイルであるパーシュパターストラのために戦っていたのです。クリシュナは初めに「それは本当です。動揺した考えをコントロールすることは大変難しいです」と言う事によってそれが正しい事であると認めました。これは人が考えを越えられない事を意味します。考えを一つの進路に留めておくことは、手で風を掴もうとするようなものです。

 

それゆえに、心理学的秩序は、もう一つの重要な顕在です。なぜ重要かと言えば、人はこの世界で自分の人生を自分の考えのレベルで生きているからです。生きるということは関わるという事で、関わりとはこの考えのレベルから来るものであり、その人の世界に対する反応はこのレベルから来ています。これでは意識的であるとは言えません。意識下があるという事は紛れもなくイーシュワラの恩恵ですが、これは子供を救うことだけに意味があると認識する必要があり、そこに固執する為ではないという事をはっきりさせるべきです。そうでなければ、人は無意識によってコントロールされているので機械的です。意識下によって支配されている故に自分の反応は機械的なのだ、という事を明確に理解した時、その人はもはや機械的ではありません。その人は意識的です。この事をイーシュワラの秩序の顕在であると認識したなら、人に何が起こったとしてもそれは秩序の下にあるということです。これは並大抵のことではありません。

 

p,68~

*jagataḥ pitarau vande pārvatī-parameśvarau(Raghuvamsa1,1)

カーリダーシャは書きました。*私は宇宙の父母であるシヴァとパールヴァティを礼拝します。これはとても興味深い事です。彼は神を父親と母親の両方として呼びかけました。ジャガタハ ピタラウというフレイズはニミッタカーラナ:知的な源とウパーダーナカーラナ:物質の源を示しています。この二つの源は父親と母親と呼ばれることができます。なぜ私たちは神を父親と母親として呼ばなければならないのでしょう?なぜそうしないといけないのでしょうか?私達は神を父親と母親として呼び起こすことができます。なぜなら彼らは最終的な原因であり、彼らの顕現がこのジャガット:世界そのものだからです。

 

私たちが子供の頃、私たちは自分の母親と父親を全知全能として見ていたので、母親と父親の概念は重要です。全知全能と見て初めて完全に信頼することができました。完全な信頼とは、信頼された人がどのような形でも限りが無いことを意味します。限りのない人とは、限りのないニャーナ;知識、限りのないアイシュワルヤ;統括、限りのないシュリー;富、限りのないヴィールヤ;勇気という意味において、全てを満たしているということです。

 

絶対的に正しいものを探す

 

私達の両親に対する完全な信頼、それは父親も母親も時間や場所、彼ら自身の限界によって縛られている時点で不可能なことでした。死を免れない時点で彼らは無限ではありません。しかし、子供は両親を完全に信頼できる人だとみなすことなく生き延びることはできません。なぜなら、子供には自分で生き延びる手立てが全くないからです。完全な無防備さは完全なる信頼によって補われているのです。そのため、子供にとって親は完全に信頼できる祭壇となります。ゴキブリを見て怖がっている子供が母親の元へ走りました。母親はゴキブリを見て叫びました。その時、父親はその時になすべきことをしたのでヒーローになりました。信頼のシフトが起こる仕組みを見てみましょう。父親はゴキブリを取り扱えたのだから全能でしたが、それと同時に彼は自分の問題を抱えていました。部屋にトカゲ、ヤモリがいるので彼は眠ることができません。彼は夜警にそれを追い払うように頼みました。それまで彼は外で立っていました。どんな態度も矛盾していることが問題です。このように、子供は信頼が侵害されることを発見し続けます。

 

p,69

このようにして、人生を挙げて絶対に信頼できる存在を探すことになるのです。私がイーシュワラを一つの偉大な秩序として認識した時、私の意識の中で、私の理解の中で、イーシュワラは絶対に信頼できるものになるのです。実際、絶対に信頼できるものは秩序という形で現れたイーシュワラです。秩序の形である彼は、物理学的に絶対に信頼できるものであり、生物学的に全体に信頼できるものであり、生理学的に絶対に信頼できるものであり、そして心理学的に絶対に信頼できるものです。それは決して間違えたりしないので秩序と呼ばれるのです。無秩序とはなんのことでしょう?秩序があるからこそ無秩序があるのです。そのため、精神疾患を含め、あらゆる無秩序を理解することができます。

 

イーシュワラを父であり母であると認識して、私は自分の父と母に対する全ての負債を清算しました。イーシュワラへの気づきを人生に持ち込むことによって、私は秩序の中に在るのだと見ることができます。

 

p,70

偉大なるセラピスト、イーシュワラ

恐れがある時、私はそれを沢山の言葉で迎え入れます。私が恐れを迎え入れた時、私はイーシュワラを迎え入れています。私は一歩後ろへ引き下がります。恐れは世界に対する咄嗟に起こる私の反応です。これは意識的な反応ではなく、潜在意識の反応です。潜在意識の反応には必ず、凍りついたままの子供がいて、私の反応をコントロールしています。ですから、その恐れを受け入れます。私は一歩引き下がります。そして、二段階の反応を行います。これは私がイーシュワラを歓迎して受け入れている事を意味します。これがイーシュワラの在り方であり、秩序の在り方です。一旦、このことに気がついたなら、咄嗟に起こる私の反応に関して、私は自分自身へのヒーラーになれます。私は意識的に自分自身のセラピストになります。実際に、私にとってイーシュワラは秩序という形をした偉大なセラピストです。なぜなら、イーシュワラは絶対に間違えませんから。

 

地元のセラピストはこう言うかもしれません。「ごめんなさい、私はあなたの言っていることがよく理解できませんでした(もう少し詳しく聞かせてください)」これは言わずと知れた決まり文句です。あなたはセラピストに相談します。なぜなら、他に誰も相談できる相手がいないからです。あなたはセラピストにお金を払って、そして彼に話をします。あなたは話すべきことについてとても関連性のある話をします; あなたが全てを打ち明けるのは、彼にお金を払っているからです。お金を払うことは重要であり、治療の一環でもあります。これは、自分の中にあるものを出し尽くす為の特別な方法です。これにより、あなたは心の風通しを良くします。

 

イーシュワラは決して間違えが無いという気づきによって、あなたはあなた自身を救います。イーシュワラの観点から、あなたは完全に正しいと認められています。他の可能性はあり得ません。イーシュワラはいつも笑って言います。「これが秩序である私に従ってあなたがあるということです。これは予測されていたことです」。あなたはイーシュワラを驚かすことはできません。

 

絶対に誤りのないイーシュワラはあなたに完全な正しさを与えてくれます。あなたが「神(ジーヴァ)は絶対に間違えない」と言うなら、神があなたの祈りに応えなければ、彼は間違いを犯し得る人ということになります。津波が来ると、「なぜ神はこのようなことをするのか」と疑問に思うかもしれません。この宇宙では、地球のような1つの惑星がその軌道を外して太陽に落ちても、象の上に乗っているノミのようなものです。つまり何も起こりません。先日、ブラックホールは星が燃え尽きて物質が濃くなり、すべてのものを引き寄せて形成されると本で読みました。光でさえも逃げられないのでブラックホールと呼ばれています。太陽系がブラックホールに消えても何も起こりませんでした。

 

想像を絶する広大な宇宙の中で、どんな出来事も祈りを込めて理解しなければなりません。イーシュワラへの気づきはあなたの無意識に働きかけ、人生を掌握できるようになります。無意識は、あなたの人生を支配している時間凍結されたままの子供です。これはイーシュワラの秩序です。意識的に潜在意識のお世話をしなければなりません。大人の私が子供の私のお世話をしなければなりません。子供は統合されなければならないし、外部の誰をも犠牲にすることなく、自分自身を表現することが許されています。あなたは子供の自分を抱きしめ、自分自身の影を受け入れます。これがイーシュワラの心理的な秩序です。イーシュワラの絶対的な正しさはいつも保たれています。

 

p,71

ダルマは人を基準にしている

イーシュワラの現れにはまた別の秩序があります。価値の秩序、ダルマの秩序です。ダルマだけがイーシュワラだとは言いません。ダルマは人間が世界と関係を持つために必要なイーシュワラのまた別の重要な顕現であり、世界と関係を持つことは自然にイーシュワラのこの部分に適合しなければならないと私たちは言います。ロードクリシュナはとても美しいことを言いました。「私はダルマに反しない願望の形をしています」これは、ダルマは人間のためだけであることを意味します。動物は何がダルマかを教えられてはいません。これを食べてはいけない、あれをしてはいけないなどと教えられた猿はどこにもいません。ニューヨークに行く牛にハンバーガーを与えたとします。パンのこの部分とあの部分を頂くでしょう。レタスを少しと、それから他にも…パンの間にあるものは人間のために残しておくと思いますか⁈(笑

 

p,72

すべての動物はダルマとアダルマに関わる選択から完全に解放されていますが、人間はどこでダルマに従うように言われなければならないのでしょうか。ある人は何年もべジタリアンで、何世代にもわたってベジタリアンであった家系に生まれましたが、今、彼は選択をしようとしています。彼は、タンパク質をどのように摂取するかの方法についての滑稽なアイデアを持っています。

 

願望を満たす為にダルマと摩擦することはできない

プログラムされている動物は、彼らが想定されているように、彼らの生活を送っています。彼らの願望は抑制されています。一方で人間の願望は全く抑制されていません。見たことがあるものだけに限らず、聞いたことがあるものも望むことができます。あなたは天国、楽園を望むことができます。抑制は消えています。イーシュワラは望む能力であるイッチャーシャクティとして完全に顕現しています。

 

p73

願望はイーシュワラの秩序の中にあり、それはイーシュワラの力です。したがって全ての人間の願望はイーシュワラです。神が「私は願望という形をしています」と言う時、彼のイッチャーシャクティ は顕在化します。それは全体です。あなたがより多くの野心を持っているとき、あなたはより多くのイーシュワラを持っています。願望をあらしめなさい。

 

イーシュワラは願望の形であり、ダルマの形です。願望を満たしている間、あなたはダルマと摩擦を起こすことはできません。なぜなら、どちらもイーシュワラですから。なぜダルマに従えと言われなければならないのですか?

 

それは、あなたには選択する能力があり、あなたは自由に望むことができるからです。自由はあなたに与えられている、あなたは自由意志(フリーウィル)を持っています。車では、プログラムされたフリーホイールが与えられています。前進、後進、左、右、または停止することができます。あなたはすべてのことを行うことができる自由意志を与えられています。自由意志が与えられると同時に、責任も与えられます。あなたが進化すればするほど、責任も大きくなります。

 

選択の自由は人に力を与える事もできるし、台無しにする事もできる

 

選択する能力は、その選択を上手に使う事もできるし、乱用することもできます。自由がなければ、選択の余地はありません。自由があるときは、選択の余地があり、乱用の可能性があります。乱用の傾向がある時は、内側に恐怖や不安があるからです。あなたの不安、あなたの嫉妬、あなたの不安全。

 

全てが争いになり、追求の条件になります。したがって、人は都合の良さゆえに選ぶことがあり、いつだって正しいから選ぶとは限りません。正しいことが都合の良いことであれば問題はありませんが、時として正しいことが都合の悪いこともあります。それなので都合の良い方を選びます。

 

p,74

それは誰かの角地にある空き地のを斜めに歩いているようなものです。警告するボードがあります、[不法侵入者は起訴されます]。あなたはボードを取り外して、歩きます。ボードがあるときだけ不法侵入をしています。人々は歩き続け、すぐに歩道を作ります。後に、彼らは長い間その歩道を使用していると主張します。土地の使用権を持っていなければならないし、所有者は土地を柵で囲うことはできません。これが現代のインドです。ほんの50年前のインドではなかったことです。あなたは何か間違ったことをして、長い間それをしてきたので、今は合法的にそれをすることが許されるべきだと言うのです。これはアダルマです。

 

満たされた時、罪悪感から解放される

ダルマな願望

ダルマに逆らうことが世の傾向ですが、願望を成就させる前にこの傾向を抑えなければなりません。あなたは、より多くの野望を抱くことができます。ロードクリシュナは、あなたがあなたの願望を満たすことはできると言いますが、彼は同時にダルマであるということを覚えておかなければなりません。あなたがダルマに従いながらも願望を満たすとき、あなたは罪悪感から自由です。ウパニシャッドはこの事実を認めています。これが成熟というものです。

 

p75

成熟した人は知恵を得ます。成熟はこれにのみであって、他にはありません。知恵は急に降りてくるものではありません。あなたは成熟した生き方をしなければなりません。あなたは完璧な男性、あるいは完璧な女性に成長しなければなりません。そもそも、完璧とはダルマに適合する能力のことです。あなたが成長すると、ダルマに逆らうことができないほど完璧になります。先ずはダルマに従うことを心がけましょう。あなたはダルマの形として現れている神に祈ります。「私がダルマに従うよう助けてください。」あなたは彼の恵みを呼び起こします。ダルマに従うことはそう容易なことではありません。特に、他の誰もがアダルマに従っている時には。あなたがダルマに従うためにはイーシュワラの恩恵が必要なのです。あなたはダルマの形で同じイーシュワラを呼び出しています。ダルマは神の普遍的な顕現であり、秩序です。

 

ダルマは普遍的なもの

あなたがされたくない事は、他の人にとってもして欲しくない事です。傷つけられたり、奪われたり、騙されたりしたくはありません。あなたは他の人に思いやりを持って欲しい、与えることや愛情を持って欲しいと思っています。これがダルマであり、それが私たちが与える行為をダルマと呼ぶ理由です。他の文化では、与えることをダルマと呼ぶことはありませんが、他の文化の人はそれを慈善事業(チャリティー)と呼んでいます。慈善事業は、あなたが慈善事業を行うときに恩着せがましい態度をとることを前提としているので、最も慈善的ではない言葉です。

 

私たちは、共生の生活を送っています。お互いを必要とし、助け合う必要があります。したがって、与えることはダルマです。これは然るべき義務なのです。私たちは人々が与えてくれることを期待しています。確かに、私たちは理解者であり、親身になって対応することができます。私たちは、他の人々に自分の限界を理解してもらう必要があるように、私たちは、他の人々の限界を理解することができます。この理解は、日々の生活の中で非常に意味深いものです。

 

p76

アダルマは罪悪感を生み出す

私たちにとってダルマはイーシュワラの現れであり、イーシュワラは法則の形で現れています。すべての事象は法則の支配下にあります。ダルマは法則の一面です。そして、ダルマの反対の側面にはカルマがあります。ダルマがあるとき、必ずカルマがあります。人はいつも「スワミジ、この人は沢山のアダルマをしているのに繁栄していますが、私はダルマをしてるのに、ちっとも進歩しません。彼は沢山のお金を持っています。私が言いたい事はつまり、彼は右手と左手を使いながら、テーブルの上でお金を受け取り、テーブルの下でもお金を受け取っているという事です。」と愚痴を言っています。

 

それは、その人のすべてのカルマがダルマに逆らっていることを意味します。ダルマに反することをすれば、当然そのカルマは結果;phalaを生みます。目に見える結果;dṛṣṭa phala だけではなく、目に見えない結果;adṛṣṭa phalaも含みます。その人は、間違いなく多くのお金を持っていますが、また、別のdṛṣṭa phalaとして、罪悪感を持っています。罪悪感を持たずしてアダルマを行う事はできません。成長とは、「どうして正しいことをしなかったのか、どうして間違ったことをしてしまったのか」を問うことにあります。*ヴェーダはこの “なぜ正しいことをしたのか、なぜ間違ったことをしたのか “について語っています。罪悪感は人が持つことができる最悪のものです。罪悪感のない人生とは、完全な人生を送るという事で、これが目に見える結果;dṛṣṭa phalaです。人がしでかした悪いカルマ;pāpaは、現世であっても他の人生であっても、間違いなく最も不愉快な状況の形で現れます。

 

*kimahaṁ sādhu nāṁkaravam.kimahaṁ pāpam akaravam iti (Taittirīyopaniṣad)

 

p,77

ダルマに反すると傷を生む

カルマの法則は、ダルマがあるからこそあるのです。カルマがあるところには、karma-phala;カルマの結果もあります。これが私たちのシャーストラ;聖典です。知的に生きるとは、ダルマとカルマの両方を意識することです。欲求は、それが満たされる必要があるならば、行動に移されなければなりません。あなたが自分の欲望に基づいて行動するとき、当然のことながら、ダルマに沿った行動があったり、ダルマに反した行動があるでしょう。法則とは、あなたがダルマと摩擦する行動を選べば、ダルマがあなたに摩擦し返してくるという事です。

 

タマリンドの古木を見つけて、素っ裸の背中で木を擦ってみてください。それから木を見てください。木には何も起きていません。木は立っています;何かあったのなら、枯れた樹皮が落ちているくらいです。あなたは木をこすり、木はあなたを静かにこすりました。何もせずに、木が元々あったところに立っています。その後、あなたは背中が傷だらけでシャツが着られなくなります。あなたは木を擦り、木はあなたを擦りました。これが法則というものです。あなたが擦る時、あなたは擦る人であり、擦られる人なのです。これが法則です。行為および反作用は等しく、表裏一体です。これがイーシュワラの法則です。

 

あなたは、その過程において、摩擦を受けることなしにダルマに反する事はできません。これがカルマの法則です。知的に生きるということは、これらすべてを意識することです。自分の人生だけではなく、仲間である他の生き物のためにも責任を持つことです。社会のニーズを満たすために、社会が必要としているものがあれば、どこでもあなたが提供することができます。あなたができることをしなさい。人任せでは済まされません。先ずはあなたからです。やるべきことをやり始めなさい。そうすることで変化が起きます。

 

p78

あなたは百匹目の猿になるかもしれません

小冊子に「百匹目の猿になるかもしれない」という話があります。ある島に猿が住んでいました。かつて、そこで大干ばつがありました。食べ物がなくて、猿は飢えていました。ある日、猿が根を引き抜き、海水で洗い、それを食べ始めました。これを見ていた別の猿が繰り返しました。他の猿も同じことをし始めました。それから間も無く、百匹目の猿が根を洗って食べました。百匹目の猿が根を食べると、他の島の猿も同じことをするようになりました。ということで、本のタイトルは「あなたは百匹目の猿になるかもしれない」なのです。百匹目の猿は変化をもたらしました。私たちは、物事が起こるのを待つのではなく、物事を実現することができます。それが変化をもたらす方法なのです。私たちは、物事を実現する必要があります。

 

イーシュワラは認知上の秩序

イーシュワラのヴィジョンを様々な秩序の観点から吸収するとき、私たちはもう一つの秩序を含んでいます。様々な秩序を理解するためには、認識論的な秩序があり、それは知る力、知る手段という形で私たちの中に現れています。感覚器官は、理性的な思考に支えられて、プラマーナと呼ばれる”知るための手段”を構成しています。感覚と理性的思考だけがプラマーナ;知るための手段ではなく、私たちはもう一つのプラマーナ;知るための手段としてシャーストラ;聖典があります。これらはすべてイーシュワラとは別個ではありません。

 

p79

インドの村人は、地球に対する心の態度(認知)を持っています。彼は地球をただ単に土地や土や泥としては見ていません。彼はそれをブーミデーヴィとしてみています。村人のヴィジョンは、イーシュワラは一つの場所だけにいるとは見ていません。もし彼らのヴィジョンが外部からの影響によって損なわれていなければ、彼らはまだイーシュワラがどこにでも在ると感じています。それは、彼らの生活の中に、豊かな形で反映されています。

 

Talk 7

 

イーシュワラが全てであるというヴィジョンから生まれる態度

私たちの文化には、全てがイーシュワラであるというビジョンが浸透し、それが文化の形として現れています。私たちの言語の中にも、全ての崇拝の形の中にも、私たちの態度にも浸透しています。あなたはスプーンいっぱいのターメリックパウダーとわずかな水を混ぜ、塊を作ることによって祭壇をこしらえることができます。あなたはその塊に「この形にmahāgaṇapati を呼び起こします」と言い、イーシュワラを呼び起こすことができます。単なるターメリックパウダーにすぎないものに、全ての障害を無効にする神(mahāgaṇapati)を呼び起こします。そして彼はまた、あなたの行動の果実(実り)の贈り主として障害を創り出すものでもあるため、あなたはこのカルマ(プージャ)によってそれらの障害を中和します。あなたはそのターメリックパウダーの中にイーシュワラを呼び起こす能力を持っています。プージャの後、あなたはターメリックパウダーを元の状態に戻します。元に戻した後も、それに対するあなたの態度は、もはや単なるターメリックパウダーに対して持っている態度ではありません。それはmahāgaṇapatiに対する態度です。あなたの態度(心の姿勢)は変わりました。あなたはもうそのターメリックを料理に使ったりはしません。

 

お金に対する態度 

あなたの問題のすべては不適切な態度のせいです。態度とは、あなたが作り出すことができるものではありません。私たちの文化ではお金は単にお金としてではなく、ラクシュミーと見なしています。これが態度(心の姿勢)というものです。この態度はインド全土に現れています。イーシュワラのśaktiであるラクシュミーと見なされているお金を誰も踏まないでしょう。これはお金との知的な関わり方です。あなたはこの態度を養う必要はありません。それはこの文化の中で暮らしていれば自然に育まれるものだからです。お金は神聖なものとして見られていますが、それはお金に購買力があるからではありません。お金は神聖なものですが、購買力は神聖なものではありません。他の文化では、お金は神聖なものとして見られていません。

 

インドの文化には、全てはĪśvaraであるという一つのビジョンが浸透しています。私たちはイーシュワラに場所を与えたりはしません。私たちはここにある全てがイーシュワラだと言っているのです。全ての場所がイーシュワラです。空間と時間はイーシュワラに依って存在しています。実際に、空間はイーシュワラであり、時間はイーシュワラなのです。upaniṣadは言います。*”kaṁ brahma ,khaṁ brahma”  kamは幸福を意味し、khamは場所を意味します。これで私たちはなぜ富が力なのかを理解することができます。お金はvibhūti;栄光であり、そのvibhūtiとはイーシュワラのことです。サラッスヴァティーもまたイーシュワラであり、これが私たちが本を踏まない理由です。これは心の姿勢からくる態度です。この姿勢は私たちの中で成長してきたものです。これは祝福であり、私たちはこの特別な価値を認識する必要があります。

*प्राणो ब्रह्म कं ब्रह्म खं ब्रहमेति (छान्दोग्योपनिषद् ४,१०,४)

 

p,81〜

知識に対する態度

知識に対する私たちの態度は同じです。世俗的な知識と神聖な知識というような区分けはありません。*Muṇḍakopaniṣad は“人は二つのタイプの知識を求めるべきです。一つはaparā vidyāで、もう一つはparā vidyāです。”と言います。aparā vidyāとは何でしょうか?Ṛgveda, Yajurveda, Sāmaveda, Atharvaveda, Śikṣā 発声学, Vyākaraṇa 文法などの事です。微生物学を含む全ての知識の分野はaparāvidyāです。

*द्वे विद्ये वेदितव्ये… परा चैव अपरा च (मुण्डकोपनिषद् १,१,४)

 

parā vidyāとは何でしょう? 神であるイーシュワラを理解することは parā vidyāであり、神聖な知識です。それでは、Ṛgvedaはどうでしょうか?Yajurvedaはどうでしょうか?それは神聖な知識です。実際、parā vidyāもaparā vidyāもどちらも神聖な知識です。知識はsarvajñaであるイーシュワラに属するので神聖なものです。全知識の本質であるsarvajñatvaは全ての知識の分野を含んでいます。

 

知識は拾い集めるようなものではありません。それはすでにあなたの意識の中に存在しています。知識を阻害するものは、あなたの無知です。したがって、無知を取り除くことだけが知識であり、それは全く異なる態度です。無知を取り除く事が知識であるとしたら、誰かは知識を知ることができないとは言えません。全ての先生は無知を落とすことが出来ます。無知を取り除くことが知識であるならば、誰が知ることができないでしょうか?また、教え方には様々な方法があるので、与えられた先生が無知を削ぎ落とすことができないと言うこともできません。1つの方法がうまくいかない場合は、別の方法がうまくいきます。

 

例えば、古い鍋を見て、その片隅に真鍮が見えたとします。それを洗っても何も起こらないし、タマリンドをかけても何も起こりません。そしたらどうしますか?ブラッソのような特殊な研磨剤を持ってきます。あなたは真鍮製の鍋だと分かっているので、そう簡単にはあきらめません。輝きはすでにそこにありますし、必要なのはそれを引き出すことです。その輝きを覆っている錆びを取り除かなければなりません。これが知識です。

p,83

 

先生にとって教えることの難しさは、心を使って仕事をしているということです。心を使って仕事をするときは、心が自分と一緒にあることを確認しなければなりません。教えることには二重の責任があります。一つは、伝えるべきことをしっかりと伝えること、もう一つは、伝えるべき相手の心が自分と一緒にあることを確認することです。それは創造性であり、そう簡単にはいきません。私は知識そのものに対する姿勢(態度)の話をしています。

態度を統合する必要がある

これらの態度の奥深い意味を理解しないのは無知です。態度はあなたの中に残ります。あるものは、非常に曖昧な態度であり、統合されていない態度です。統合されていない態度は、本当に、あなたにどんな自己評価も自尊心も与えてはくれません。

「文化は根源への道だ」という人の言葉を聞いたことがあります。それはいい考えだと思います。あなたはあなたのフォーム(作法)そのものです。フォームはどこから来るのでしょうか?ナマステはフォームです。あなたのランゴリはフォームです。クンクマやチャンダナもフォームです。フォームの背後には何らかの意味があるはずです。もしあなたが意味を知らず、フォームだけを持っているとしたら、どのような自尊心を持つことができるというのでしょうか?あなたは自分自身についての全て(あなたがしている作法の全て)を知らなければなりません。

自尊心を楽しむためには、何をするにしても意味を持たなければならないし、特に文化や宗教の面で意味を持たなければなりません。中心人物は宗教家であり、だからこそ人間を爆弾にできるのです。爆弾にされる彼または彼女は条件をつけられたり、教化されたりします。この核となる人、宗教家を愛し、理解していないと、あなたは爆弾になってしまいます。

p84

形と精神

どのように見ても、すべての形には意味があります。その形に精神を統合させなければ、形は死骸のようなものであり、形のない精神は幽霊です。これらはどちらも必要ありません。精神と統合した形が必要なのです。もし誰かがあなたに偶像崇拝は悪いことだと言ったら、その人は理解を拒んでいるか、理解できないかのどちらかです。偶像を崇拝する人なんていません。イーシュワラだけを崇拝しているのです。礼拝の儀式をしていない人は、多くのものを失ってしまいます。なぜなら、ここにある全てのものは「あらゆる形」という形で現れたイーシュワラだからです。実際には、これら形の数々だけが、日常生活におけるvyavahāra(関わり合い)の真実を構成しています。経験的に真実であることにおいて、「形」以外のものは何もありません。これらはイーシュワラの現れた姿であり、だからこそ、どのような形であっても、イーシュワラ全体、あるいは特定のデヴァターを呼び起こすことができるのです。あなたは偶像崇拝者だと批判されたとしても、謝る必要はありません。

北部では、「私たちは礼拝の形式、礼拝の祭壇には従いません」という組織が生まれました。これは間違っていますし、真実ではありません。祈りを捧げるとき、言葉は形に過ぎません。方向は形です。ひざまずくのも形です。あなたが人を祝福するとき、それは形です。あなたが握手をする時、それは形になります。誕生日の挨拶も形です。人生のすべては形によって存続しているのです。「形」以外には何もありません。「形」は、あなたによって眺められ、視覚化され、理解され、イーシュワラとして統合されるべきです。「Īšāvāsyam」とは、ジャガット全体をイーシュワラとして思い描いている非常に美しい表現です。ここにあるものは全て、nāma-rūpa つまり、名前と形に他なりません。

表現のあらゆる形に対する私たちの心の姿勢は、統合されるべきものです。私たちは今、表現のあらゆる形の精髄を統合させる為に、私たちの上に育つ心の姿勢を持っています。

すべてが神聖なもの

私たちの国には、私たちの文化には、世俗的なものは何もありません。お金は美と富と豊穣と幸福を司る女神ラクシュミー(Lakşmī)であり、それは全ての富が Śrī(ラクシュミー)の顕現だからです。家はラクシュミーであり、グルハ(家)ラクシュミー(Gṛha-Lakşmī)です。成功はジャヤ(勝利)ラクシュミー (Jaya-Lakşmī)です。子供は、サンターナ(子供)ラクシュミー(Santāna-Lakşmi)です。子供は、ラクシュミー、あるいはイーシュワラからのプラサーダ(prasāda)、贈り物ですから、私たちはガウリプラサド(Gauriprasad)、シヴァプラサド(Sivaprasad)、ラジェンドラプラサド(Rajendraprasad)など、子供に「プラサーダ」という名前を与えます。贈り物ではない人なんていますか?すべての人は、人からの贈り物ではなく、イーシュワラからの贈り物であり、その認識がある時にのみ、贈り物はプラサーダとして受け取られます。イーシュワラの慈悲からもたらされるプラサーダ(贈り物)とは心の姿勢のです。カルマ・パラ(行いの結果)もまたプラサーダです。

人生において、私たちは価値のあるもの、そしてそれが私たちにとって神聖なものであることを求めます。知識はお金と同じように神聖なものです。ワーユ、風は神聖なものです。虫でも植物でも木でも動物でも、ワーユが全てを支えているのです。「Tvameva pratyakṣaṁ brahmāsi, ワーユ、あなたは支えているものイーシュワラです。」ワルナ、水は神聖、アグニ、火は神聖、プリッティヴィー、土は神聖、アーカーシャ、空間は神聖。これが私たちの態度です。インドのチダンバラムにあるリンガはアーカーシャです。有名なChidambara-rahasyaは空間に対する崇拝以外の何ものでもありません。

Liṅgamの意味

リンガとは何かを理解する必要があります。リンガとは、自分が理解しているものという意味です。 *インドの論理学では、リンガはメジャーな用語です。煙は、推測的に火に到達するためのリンガでしょう。あなたは火を見ていませんが、煙を見て、火があると言います。火を見ずにどうやって火があると言えるのでしょうか?それは煙が見えるからです。その根拠は何ですか?煙があるところには火があるに違いありません。煙はリンガ、つまりhetu、理由になります。もし宇宙全体を、宇宙にある全ての名前と形を一つにまとめ、一つの形にするとしたら、それがリンガであり、形のない形になるでしょう。

*लिड्गयते अनेन इति लिड्गम् 

アーカーシャはリンガです。イーシュワラが空間として呼び起こされました。カラハスティでは、イーシュワラはワーユーとして呼び起こされます。そこの本殿には炎が揺らぐランプがあります。炎がなびくのは、ランプのどこかに穴があり、炎をなびかせるのに十分な空気が入ってくるからです。ワーユーは推測されるリンガです。ティルヴァンナマライではアグニがリンガです。ティルヴァナイカヴァルでは水がリンガです。カンチプラムのエーカムバレシュワラ寺院では、まさに大地がリンガ、スワヤムブ リンガです。あなたはそれらを崇拝しているので、これらのことをすべて知っておく必要があります。したがって、五大元素は全て神聖なものなのです。

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所有権はない

あなたの身体は、あなたにとって神聖なものです。五大元素でできているこの身体は、あなたに与えられています。しかしながら、所有権はあなたにはありません。もし所有者がいるとすれば、母親がその主張をすることができます。母親が所有権を主張すれば、父親は50%を主張することができます。結婚しているなら、妻は夫の身体の所有権を主張することができます。子供たちも主張することができ、国家も主張することができます。インド人の身体には、アメーバが何世代にもわたってそこに住んでいますから、アメーバは継承された権利を持っています。太陽、空気、水、元素、すべてがあなたの身体を主張することができます。あなたを除いて、誰もが「あなたの身体」を主張することができます。

ある裁判官が「私はこの体の管理受託者を任命しますが、誰がこの体を管理する準備ができていますか?この体を管理する者は、頭痛があるときはいつでも頭痛を知り、胃の痛みがあるときはいつでも胃の痛みを知り、空腹と喉の渇きを知り、腰の痛みがあるときはいつでも腰の痛みを知るべきです。それができる彼または彼女だけが、この体を管理することができます。それでは、誰が準備できていますか?」アメーバは、管理する方法を知らないので、沈黙しています。彼らは破壊する方法しか知りません。彼らは皆、寄生虫であり、あなたは宿主です。彼らは静かにしています。他の誰もが沈黙しています。誰もこの体を維持したいとは思っていませんし、その知識も持ち合わせてはいません。ショーを運営できるのはただ一人、それがあなたです。

あなたはこの身体の管理人に任命されています。あなたはこの体の「所有者」ではありません。ここでは、所有権(永久的に自分のものとして自由に使う権利)はなく、保有(手放すまで預けられている、管理を任されている)だけです。同様に、あなたはお金の所有権を持った人ではありません。たまたま保有していただけです。あなたはそれに対して何らかの権利を持っているように見えますが、それは法的な装置に過ぎません。それはある人が高層ビルの4階に所有しているフラットのようなものです。彼は自分がそのフラットの所有者だと思っています。

私は彼に「その土地は誰のものか」と尋ねます。

“誰も土地を所有していません”

“土地を所有していないのに どうやって家を所有できるのですか?”

“そんなこと聞かないで下さい。アパートは私のものですよ”

“じゃあ何を所有してるのですか?”床ですか?”

“そうですよ、床は私のものです”

“でも床は下の人の天井ですよ”

“そうですね。この間、妻が何かを叩いていたら、3階の人が上がってきて『これは先祖代々のものですか』と蹴り上げてきたんです。

“この階は私のものではなくて、下の人の天井なんです”

“じゃあ、その天井は自分のものですか?”

“はい 天井は私のものです”

“でも天井は上の人の床ですよ”

“そうですね”

“左の壁は左隣の人の右の壁で、右の壁は右隣の人の左の壁です”

“その通りだ”

“では、あなたは何を所有しているのですか?”

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人生を知的に生きていれば、この世界で自分は何も所有していないことに気がづくでしょう。ただの管理人に過ぎないのです。お金を持っていても、胃袋一つ分しか食べられません。ですから、良い管理受託者になりなさい。誰かさんが管理する金を持っているなら、その人が管理しなければなりません。バガヴァーンがそれを与えたのは、良いカルマがあったからです。あなたは「自分の財産を管理できない」と言ってはいけません。管理しなければならないし、上手く運用されなければなりません。自分が所有者ではないことを知っていれば、うまく管理することができます。あなたはこの体の管理人であり、他の全てのものも管理しているのです。

知的な両親

子供を育てるにも、子供との関係を築くにも、知的である必要があります。子供はあなたから生まれただけで、あなたの一部ではありません。私たちは皆、彼らが自分の一部だと思っています。それぞれの子供は、間違いなくあなたから生まれてきます。それは、別のロウソクから灯されたロウソクのようなものです。同じ力を持っています。唯一の違いは、子供が生まれる時、赤ちゃんだということです。子供は部分的にではなく全体として成長しなければなりません。頭も肝臓もなく生まれてくるわけではありません。細かな臓器は全て既にそこにあり、全体的に成長します。

ですから、子供はあなたに与えられたものであり、神からの贈り物であるバガヴァット プラサーダです。あなたは神であるイーシュワラの役割を果たしているのです。これが誰もが子供を持ちたいと思う理由です。それは、親がイーシュワラのように創造主の役割を果たしているからです。本当のことを言えば、あなたはパラメーシュワラの手の内にあるニミッタ、道具のようなものです。したがって、子供はあなたに与えられたプラサーダ、贈り物であり、あなたの一部ではありません。

手はあなたの一部です。手を上げたいときは手を上げられます。一方、スワミが家に来たときに、子供に 「śāntākāram…」と唱えるように頼んだらどうなるでしょうか?「さあ śāntākāramを唱えなさい…」「う~ん」

なぜですか?それは、子供はあなたから生まれただけで、あなたの一部ではないからです。あなたが子供に「静かにしていなさい」と言うと、子供は唱えだすでしょう。

あなたは子供がティーンエイジャーの時に文句を言います。ティーンエイジャーはいつも、自分がすべての問題の解決策を持っていると考えています。これは私たちが皆そう思っていることです。だからこそ、大きな愛情を持って彼らと楽しむことが大切で、子供には質の高い時間を与えてあげたいのです。あなたは子供を知的に育てなければなりません。知的な生活とは、知的に関わることを意味します。子供は親が気にかけていることを知るべきです。そうすれば、たとえ叱られてもそれを受け入れられます。これも思いやりの一環です。親が子供の目を見るということには、拍手があり、祝福があり、賞賛があり、受容があり、感心があり、承認があります。

ここにドゥルタラーシュタラ(盲目の王)が犯した間違いがありました。ガーンダーリ(妻)は言いました。「ご主人様が見えないので、私は目隠しをするつもりです。ご主人様が見ていないものは、私も見たくありません。」ドゥルタラーシュタラは、盲目である自分に代わって彼女が目となって役割を果たしてくれることを主張せずに、自分と同じであることを選びました。この為、彼らの子供たちは、親が自分の目を見てくれることによって得られる親からの承認を得ることができませんでした。

知的な子育てとは、あなたの事を受け入れていますよという承認と共に子供の目を見ることです。そうでなければ、彼または彼女は全ての人生で頭を下に向けて話をするでしょう。彼は恥ずかしがり屋になり、人の目を見ることができません。それに、承認を過剰に求めるなどの問題が出てきます。ですから、子供の目を見ることは、自尊心を持った子供を育てることにつながります。目隠しをしていたガーンダーリのように、母親が子供の目を見る余裕がなければ、ドゥルヨーダナ達のような収穫(子供達)を手に入れることになります。それはただの無責任な社会貢献です。このようにしてクル一族全体が破滅してしまったのです。クリシュナのおかげで、一人のParīkşit(クル一族の息子)は救われました。目隠しをしていたせいで、全ての人は破滅しました。ですから、プラサーダとして子供たちを育てることは、態度(物事を客観的に正しく理解しているという心の姿勢)なのです。

身体はお寺

あなたの体はお寺です。なぜなら、あなたに与えられた贈り物、プラサーダだからです。神は内側にあって、意識として気づいている者ですが、ありとあらゆる物は、意識の対象物です。あなたは自分の中に神を呼び起こすのです。あなたはこれを統合する必要があります。プージャーが行われるときに聞いたことがあるでしょう。仮の祭壇が作られ、僧侶たちは祭壇の周りを回って、「*私の人生で犯したあらゆるパーパが、一周する一歩一歩において消滅しますように」と唱えます。

これは深遠なマントラであり、周りを回るたびに全てのパーパが破壊されることを意味します。これが祈りです。部屋が狭くて、十分なスペースがない場合は、あなたはその場で3周回ります。それは何を意味するのでしょうか?それはあなたの心に鎮座している人がバガヴァーンであることを意味します。あなたは自己尊厳、自己評価に関する問題を持ちません。その事が、理解がある事を示しています。

* यानि कानि च पापानि जमन्मान्तरकृतानि च |

    तानि तानि विनश्यन्ति प्रदक्षिणपदे पदे

yāni kāni ca pāpāni janmāntara-kṛtāni ca 

tāni tāni vinasyanti pradakșiņa-pade pade.

あなたの毎日の入浴をスナーナ:神に捧げる沐浴にするのは、あなたの態度(理解からくる心の姿勢)です。あなたの服は、神のための衣服ヴァストラです。装飾品は神のためのアランカーラです。チャンダナ(白檀)、クンクマ(サフラン)、プシュパ(花)は、神への供物です。これは、あなたの日常の儀式の一部です。このような態度は、ここにあるもの全てがイーシュワラだという理解から生まれるものであり、イーシュワラは未知からは始まりません。それは、知る人、あなたから始まります。この認識によって、全ての形や全ての態度に対する理解があなたにもたらされます。

繰り返しになりますが、ここにあるもの全てがイーシュワラです。この認識によって、私は知的で実用的な生活を送ることができるようになります。なぜなら、私はイーシュワラから自分を遠ざけることができないからです。私は孤児ではありません。孤児はいませんし、孤児院もありません。私の人生にイーシュワラがいないときだけ、私は孤児です。イーシュワラは全ての人のためにあります。私はこのような態度で、ずっとイーシュワラとつながっています。これが知的な生き方です。人生にイーシュワラを持ち込むのではなく、私の人生にはすでにイーシュワラが存在しているということに気がつくのです。必要なのは、イーシュワラの存在に気がつくことだけです。


ओम् तत्सत्

オーム・タット・サット