public talks 1 日本語訳

public talks 1 日本語訳

p,56

バックグラウンドを歓迎する

二段階の反応では、あなたは一歩引き下がり、そして背景を持つ彼や彼女である相手を見ます。あなたはその人の背景の全てを知らなくて良いのです。その必要性はありません。あなたがセラピストでない限り、相手は自分の背景をあなたに話すことはありません。ましてや、背景は無意識の中に埋もれているので、自分の背景を知り尽くしている人はいません。背景のない人なんていません。そのことをあなたは知っておくべきです。なぜ彼はこんな振る舞いをするのか、どうして彼女はこんなことを私に言うのか、なぜ彼女は私がすでに与えたそれらの事実に気がつかないのか、どうして彼女はこの事に反応しないのか、なぜ彼や彼女は私に多くの事業計画を課すのか? そうです、これらはすべて背景があるので存在しているのです。

もし、あなたが背景の存在を認識しているのであれば、その時あなたの反応は単に何を言われたとか何をされた、というようにはなりません。その背景の存在を自分なりに解釈した上での対応となります。この知識があるからこそ、思いやりのある人、シンプルな人になれるのです。思いやりはあなたから始まります。その時だけ、他人への思いやりが生まれるのです。あなたが自分の振る舞いも背景から来ているいると見ることができれば、あなたは自分に優しくなれます。あなたはどんな感情が来ても歓迎しますし、うまく扱うことができます。あなたはあなたの感情をうまく扱えるようになります。

 

p57

「願望」と「怒り」は、vega:強い力を生み出します。なぜギーターはこの力について言及しているのでしょうか?ギーターはkāma:願望とkrodha:怒りは無くならないけれど、それらのvega:強い力は管理することができると認識しているので言及するのです。願望や怒りによって放出される力を何とかすることができます。これは、願望の魔法にかからないということ、怒りの魔法にかからないということです。あなたはあなたの怒りを管理することができます。怒りだけでなく、他の感情も管理する必要があります。自分の背景の存在を認めることができれば、他の人の背景の存在も認めることができます。二段階の対応は、自分も他人も参考にしながらです。

一段階の反応はajñāna:無知から生まれるのに対し、二段階の反応は知性、つまりイーシュワラ意識から生まれた自意識から生まれています。どのように?イーシュワラが存在するからこそ、あなたはイーシュワラをあなたの人生に引き入れるのです。存在するものを認識するようになります。あなたはすべての重要な分野でイーシュワラを認識します。全知であるイーシュワラを認識するのはあなたが全知でない限り不可能です。どのようにして全知とは何かを知り得るのでしょう?あなたは何が「全て」なのかも知りません。全知を認識するというあなたの疑問はどこにありますか?それでもなお、あなたはイーシュワラを認めることが出来ます。samaṣṭi:全体を認めるだけで良いのです。どこであれ、個人の栄光があるところにはsamaṣṭiがあります。あなたが個人の栄光の中に自分を閉じ込めるなら、それは井の中の蛙のように生きていることになります。どこであれ目があるところには視覚があるというシンプルな事実の中に、samaṣṭiの栄光を認識することができます。どこにだってこれを認識することが出来ますよね。

 

p,58

例えば、肝臓のような個々の器官という観点からもsamaṣṭiを見ることができます。私たちのśāstra(聖典)には、肝臓を司るdevatā:神はいませんが、samānaと呼ばれる消化器系全体を司るvaiśvānara(毘沙門天)という統括神がいて、それに肝臓も含まれています。同様に、prāṇa:呼吸器系やvyāna:循環器系などの他の組織のdevatā s(統括神達)もあります。全ての臓器と腺はこれら組織の下にあります。

食べる前には儀式的な祈りをします。この祈りの中で人は「prāṇāya svāhā」と言い、呼吸器系のdevatāであるprāṇaへ食べ物を捧げています。同じように、食べ物は他のdevatāへも儀式的に捧げられます。祈りはbrahmaṇe svāhāで終えます。Brahmaṇeとは、あらゆる生物に行き渡っている生理的な法則の形で顕在化しているブラフマンのことを意味します。Svāhāは供物、すなわち奉納のことです。これは私たちのNamaskāra:尊敬を捧げる際の供物です。物事が機能しているということは、イーシュワラの姿であるひとつの秩序があるのです。生き物の体があるところではどこでも、生き物の体を生かすための秩序があります。その秩序の姿をしたイーシュワラに、私の尊敬を捧げます。実際に、私たちのśāstraでは、prāṇaという形で現れているイーシュワラを*sutrātmanと認識しています。

(*生きとし生けるもの全ての5つのプラーナのレヴェルで現れている全体の人イーシュワラの名前を、スートラ・アートマーと言います。生きとし生けるものの肉体、つまり、ストゥーラな宇宙のレヴェルに現れている全体の人イーシュワラの名前を、ヴィラートと言います。)

「知的に生きる」とは、この秩序を認識することです。私たちはイーシュワラをとてもたくさんの秩序として認識することができます。物事は確たる秩序の中に存在します。誰も報いを受けずに秩序を超えることはできません。例えば、火に触れると火傷をしますが、火に「なぜ焼いたのか」と聞くことはできませんよね。もしあなが聞くなら、こう返ってくるでしょう。

「私の指を焼きましたか?」

「はい」

「なぜ焼いたのです?」

「私はあなたの指を焼いてはいません」

「あなたは私の指を焼いたと言いましたよね?」

「はい、私はあなたの指を焼きました」

「それなら、なぜ私の指を焼いたのです?」

「私はあなたの指を焼いたりしていません、さっき言ったでしょ」

「あなたは言っていることがころころ変わるので、冷風と熱風を吹けるということですか?」

「いいえ、私はいつも熱いのだけを吹いています。」

「でも、あなたは私に2つの答えをくれたではありませんか」

「私はあなたの指を焼いてません、私はあなたの指を追いかけてはいませんから」

「でもやっぱり、あなたは焼いたじゃないか!」

「あなたが私に触れたからです。私の仕事は何であれ私に触れるものを燃やすことです。もし必要な時間だけ私に触れたら、燃やしてあげますよ。」

これが秩序というものです。物事がどのように機能しているかということです。私たちは、そこにある法則、様々な手段と結果、そしてそれらの関連性を理解しています。私たちは物事の間にある因果関係を理解します。私たちは行為とその反応の間にあるつながりを理解します。このようなこと全てが様々な秩序の下にあります。

p60~

人間の声だけは特定の音を出すことができます。子供の頃からある言語を話す人は、あるアクセントがないと他の言語の単語を作れないように見えますが、誰でもどんな言語でもどんな文字でも発音させることができます。人間の声の発声学を知っているなら、どんな音も出すことが出来ます。サンスクリット語にはこのような地図があります。それぞれの文字を発声する声帯の部位と、その文字を発声する為に必要な努力の種類が示され、これら全てが書き留められています。これが法則というものです。これは誰か個人の創造物ではありません。創造とはこのようなものです。子音は母音の力を借りないと出せません。母音は前にくるか後にくるかのどちらかでなければなりません。あなたはakと言うことができます。あなたはkaと言うことができます。あなたはikと言うことができますし、kiと言うことができます。しかし、kとだけ言おうとしてみてください。喉につっかえるような感覚があるのがわかるでしょう。それが子音です。独立して発音できるのは母音だけですが、もう一つの母音、英語では二重母音と呼ばれる複合母音があります。母音の”a”と”u”を足すと”o”になります。ある人は”om”を”aaauum”と発音しますが、それは間違いです。”om”をこのように発音するのはイーシュワラに反することです。もしあなたが”aaauum”と発音するなら、それは法則に背くことになります。あなたはイーシュワラが現れた姿である法則に従わなければなりません。これが知的に生きるということです。

ここにも法則があります。全てのakṣara:音節に、全てのvarṇa:文字にも、adhiṣṭhāna-devatā:統括神があります。私たちのイーシュワラに対する感覚、イーシュワラに対する認識は徹底しています。私たちは神が一つ(one God)だととは言いません。私たちは神しかいない(only God)と言います。従って、私たちは多くのdevatās(神々)を持っているのです。イーシュワラを一つのsamaṣṭiという観点から見るとき、彼はdevatāになります。私たちは、彼の顕現である様々な現象から、彼のことを全体に行き渡っている総合的な存在(total being)として理解しなければなりません。たった一つのイーシュワラが様々な姿形を装って顕現しているのです。

p,61~

物理学では、物理学の秩序として現れているイーシュワラを学びます。物理的な法則は宇宙全体をカバーしています。物理学という学問において私たちが見ているものは、宇宙との繋がりであるadhibhūtaです。そして、私たちが受け入れているものは、機能の背後にある神のことadhidaivaです。これがイーシュワラの現れた姿です。

更に、イーシュワラは様々な生命の姿形として現れているものであり、生物学的な秩序として理解することができます。私たちが生物学を学ぶ時、私たちはイーシュワラを学んでいるのです。物理学でも生物学でも、あるいは他の知識の分野でも、原理を理解するときには、ある種の喜びがあります。それをvidyānanda:知識の喜びと呼びます。理解する時、知る時、私たちは全知で意識的な存在であるイーシュワラと調和しています。その特定のvidya:知識を基準にして、私たちは無知から自由です。私たちは、いかなる知識も世俗的なものとは見なしません。したがって、物理学であろうと他のものであろうと、私たちは許しを請わずに本を踏むことはできません。全てのvidyā:知識は神聖なものです。それはイーシュワラです。あなたが医学を勉強する時、あなたは生理学的な法則として現れているイーシュワラに触れることになります。これが私たちが本物のvaidya:医者をLoad Nārāyanaと呼ぶ理由です。

p,62〜

イーシュワラのヴィジョンを理解して自分のものにすることは難しくはありませんが、簡単なことでもありません。これは知的に行わなければなりません。あなたがidaṁ sarvamはイーシュワラですと言う時、sarvam”全て”はあなたの肉体と考えと五感の複合体も含んでいます。ですから、このヴィジョンには個人としてのあなたが含まれている事は明らかです。イーシュワラは、あらゆる方法であなたに浸透し、あなたを支えてるはずです。ですから、イーシュワラは信仰の対象ではありませんし、理解する為の対象でもありません。なぜなら、彼は主体と客体の両方だからです。イーシュワラのヴィジョンは主体に行き渡り、客体にも行き渡っています。イーシュワラは全てに行き渡ています。

 このヴィションを私たちの日常に取り込む為には、過度に単純化せずにイーシュワラを一般的な秩序に置き換えて考える必要があります。全てがイーシュワラであるということから、その「全体」というヴィジョンはたくさんの秩序の数々に振り分けられます。それはちょうど、大学で違う科目を勉強し、異なる規律を学ぶように、ここでも、イーシュワラについての知識を取り込む為に必要な様々な秩序に振り分けられます。物理的な秩序、生物学的な秩序、生理学的な秩序をカバーしています。それは一つの全体であり、秩序に関して理解する為の一つの単体のヴィジョンです。

私たちが評価しなければならない非常に重要な秩序は、心理学的な秩序です。心理学は現代のテーマです。それは成長しているテーマであり、非常に議論されています。同じ問題に直面しても人それぞれ見え方が違うからです。しかし、私たちにとっては十分に理解されたテーマです。躁病、うつ病、統合失調症などの大げさな言葉はなくとも、健康的な生活を送るためには人の感情を十分に理解しなければなりません。

p,63〜

バガヴァッドギーターの50%は心理学を扱っています。もし私たちが、rāga;好き、dveṣa;嫌い、kāma;願望、krodha;怒り、mātsarya;嫉妬、lobha;貪欲、mānitva;高慢さ、dambhitva;虚栄心などの心理学的用語を除いたとしたら、ギーターはとても小さな本になります。

イーシュワラとしての心理学秩序を理解することは、その人の背景とその結果を理解するのに役立ちます。背景を受け入れるとき、心理学的な秩序、イーシュワラの秩序を受け入れます。ですから、誰もがそのままで大丈夫ということです。

全ての感情をイーシュワラとして歓迎する

あなたは感情を歓迎しますが、自分の感情のために他人を犠牲にしてはいけません。あなたは感情に上手く対処します。あなたは、あなたを含む全ての人の背景を形成している心理学的な秩序の形でイーシュワラを認識しています。あなたは今、全ての感情においてイーシュワラと繋がっていることを認識できます。あなたが心理学的な秩序にイーシュワラを認識しなければ、あなたはイーシュワラから離れてしまいます。バガヴァッドギーターの中でクリシュナ神は「心が私と調和している人でありなさい」と言います。ここでいう心とは感情を意味します。このギーターの文章は、イーシュワラと共にある心理学的な秩序を理解することによって、よりよく理解することができるようになりました。全ての感情はその秩序に従って現れた結果です。感情はあなたをイシュワラから隔てるものではありません。隔てるという文章までもが秩序の中に含まれているのです。それはイーシュワラの秩序に従ったものです。

もしあなたが嫉妬や憎しみ、見捨てられた感、孤独感に慣れているなら、それはあなたがそれを普通だと思っているからです。それは普通のことではありませんが、想定内です。あなたはこれらの感情をすべて整えることができ、これらを健康にして、精神的に養うことができます。イシュワラを受け入れた瞬間、彼は心理的な秩序の形であなたを祝福します。特定の感情がある時、それを歓迎します。その感情が思いやりの心になります。

思いやりはとてもダイナミックな感情であり、イシュヴァラの手によって養われたように自分自身を見ることができる感情です。今、あなたは他の生物を見ることができます、世界全体を見ることができます、思いやりの窓から。あなたは手を差し伸べ、あなたができる事をするのです。愛は思いやりの基盤となる感情で、ダイナミックにあなたが人々に手を差し伸べるのを助けます。思いやり以外に、高度に成熟した人を特徴づける感情はないと思います。

 p,64~

思いやりの心を持って行動しなければならない 

 

成熟した人とは、思いやりのある人です。その人は自分自身に対して思いやりのある人なのです。自分を大切にするだけでいいのです。あなたは自分を大切にすることなしに他人を大切にすることなどできないというのが本音です。思いやりを発見する為には、思いやりの心を持っているかのように振る舞う必要があります。

 

恐水症の人が水の中に入らないとします。任命された水泳コーチが水に入るのを待っています。コーチは「さあ、プールに入って」と言います。その人はコーチと言い合いになります。 

 

「泳ぎ方を知らないのにどうしたら水に入れるというのですか?最初に泳ぎを教えてくれたら 水の中に入りますよ」

(コーチ)「水に入らなければ、どうやって泳ぎを教えたらいいのですか?」

「泳ぎを知らないのに、どうやって水に入れるというのですか?私は水に入れるようになる為に泳ぎを教わろうと思って、あなたを雇い入れたのですよ。私は恐水症なんですよ」

 

 彼を水に入れる以外には方法はありません。彼は浅瀬に入り、コーチは言いました。「今、泳ぎなさい」。その人は論じます。

 

「どうやって泳げるのですか?私は泳ぎを知らないのです」

(コーチ)「私がやっていることをそのままやって下さい」

「あなたは泳いでいます」

(コーチ)「そうですよ。あなたも泳げますよ」

「しかし、私は泳ぎを知らないのですよ」

(コーチ)「さぁ、泳いでいるように振る舞ってみて下さい」

「泳いでいるかのように?!」

(コーチ)「そうです!泳ぎを知っているかのように振る舞いなさい。私のように振舞ってみなさい」

「なんと!そしたら何が起こりますか?」

(コーチ)「そこで初めて、あなたは泳ぎを学ぶのです」

 

p,66~

 

泳ぐことを知っているかのように振る舞うと、自分が泳いでいることに気がつきます。真似事でいいから、やってのけなさい。他に方法はありません。水泳は泳ぐことでしか学べません。自転車に乗ることを学ぶには自転車に乗ってみることだけです。車の運転も『L』マークを車の正面と横と後ろにつけて、道路で運転することによって学びます。『L』の意味は「私を一人にして」です。笑)あなたは道路で一番安全な人です。みんな、あなたを一人にするでしょう。あなたはガレージに座って車の運転を学ぶことはできないのです。

ですから、あなたは与えることで成長していきます。何かにしがみついている時は感情的になってしまいます。イーシュワラは遠くに行ってしまいます。イーシュワラが認識されることは不思議ではありませんが、イーシュワラから離れて自分自身を保つことができるというのは不思議なことです。本当に、それは不思議なことで、誰もイーシュワラから自分を遠ざけることはできないのです。思いやりにはイーシュワラが居ます。あなたはあなたの人生にイーシュワラをもたらす為に、思いやりのある振る舞いをします。

大げさに心理学とまで呼ばなくても問題点はあります。子供はどうやって生きていけばいいのかの手がかりもなく、自分の力で生きていく能力もなく生まれてくるので、このような問題は避けられません。子供は生き延びようとする本能を持っていますが、パニックを避けることができません。パニックがこの意識的な考えから遠ざけて保たれていなければ、子供は死んでしまうでしょう。心理学的な法則として顕在化しているイーシュワラは、後で処理されるように意識的な心の表面下に、パニック、痛みや恐怖をしまっておきます。これは子供を救うことを意味しますが、永遠にそこにしまっておけるということではありません。残念なことに、潜在意識にしまわれた未解決の痛みは子供の人生だけでなく、大人の人生を支配しながら、常に生存者を作り出しています。子供のパニック、つまり潜在意識が処理されず、対処されないままである限り、その人の人生を支配することになります。ですから、ブッディ:知性というのは潜在意識に対処するために率先して行動するために与えられています。シャーストラ:聖典が与えられ、思考能力も与えられています。私たちの経験は意識の下には何かがあるという事を理解する為の助けになります。

p,67~

アルジュナの発言に対するクリシュナの検証

ギーターの中でアルジュナが「私の考えは掻き乱れている」と言っている事を見つけることができます。彼は「考えが掻き乱されている」とは言っていませんでした。彼は「掻き乱れているのが考えである」と言いました。これを発言したアルジュナは並の人ではなく、英雄でした。成功し、両手利きで、沢山の武器を手に入れて、そして、ロード・シヴァと共に無敵のミサイルであるパーシュパターストラのために戦っていたのです。クリシュナは初めに「それは本当です。動揺した考えをコントロールすることは大変難しいです」と言う事によってそれが正しい事であると認めました。これは人が考えを越えられない事を意味します。考えを一つの進路に留めておくことは、手で風を掴もうとするようなものです。

心理学的秩序は、それゆえに、もう一つの重要な顕在です。なぜ重大かと言えば、人はこの世界で自分の人生を自分の考えのレベルで生きているからです。生きるということは関わるという事で、関わりとはこの考えのレベルから来るものであり、その人の世界に対する反応はこのレベルから来ています。これでは意識的であるとは言えません。意識下があるという事は紛れもなくイーシュワラの恩恵ですが、これは子供を救うことだけに意味があると認識する必要があり、そこに固執する為ではないという事をはっきりさせるべきです。そうでなければ、人は無意識によってコントロールされているので機械的です。意識下によって支配されている為、自分の反応は機械的なのだという事を明確に理解した時、その人はもはや機械的ではありません。その人は意識的です。この事をイーシュワラの秩序の顕在であると認識したなら、人に何が起こったとしてもそれは秩序の下にあるということです。これは並大抵のことではありません。

p,68~

*jagataḥ pitarau vande pārvatī-parameśvarau(Raghuvamsa1,1)

カーリダーシャは書きました。*私は宇宙の父母であるシヴァとパールヴァティを礼拝します。これはとても興味深い事です。彼は神を父親と母親の両方として呼びかけました。ジャガタハ ピタラウというフレイズはニミッタカーラナ:知的な源とウパーダーナカーラナ:物質の源を示しています。この二つの源は父親と母親と呼ばれることができます。なぜ私たちは神を父親と母親として呼ばなければならないのでしょう?なぜそうしないといけないのでしょうか?私達は神を父親と母親として呼び起こすことができます。なぜなら彼らは最終的な原因であり、彼らの顕現がこのジャガット:世界そのものだからです。

私たちが子供の頃、私たちは自分の母親と父親を全知全能として見ていたので、母親と父親の概念は重要です。そうして初めて完全に信頼することができました。完全な信頼とは、信頼された人がどのような形でも限りが無いことを意味します。限りのない人とは、限りのないニャーナ;知識、限りのないアイシュワルヤ;統括、限りのないシュリー;富、限りのないヴィールヤ;勇気という意味において、全てを満たしているということです。

絶対的に正しいものを探す

私達の両親に対する完全な信頼、それは父親も母親も時間や場所、彼ら自身の限界によって縛られている時点で不可能なことでした。死を免れない時点で彼らは無限ではありません。しかし、子供は両親を完全に信頼できる人だとみなすことなく生き延びることはできません。なぜなら、子供には自分で生き延びる手立てが全くないからです。完全な無防備さは完全なる信頼によって補われているのです。そのため、子供にとって親は完全に信頼できる祭壇となります。ゴキブリを見て怖がっている子供が母親の元へ走りました。母親はゴキブリを見て叫びました。その時、父親は必要なことをしたのでヒーローになりました。これは信頼のシフトが起こる仕組みです。父親はゴキブリを取り扱えたのだから全能でしたが、それと同時に彼は自分の問題を抱えていました。部屋にトカゲ、ヤモリがいるので彼は眠ることができません。彼は夜警にそれを追い払うように頼みました。それまで彼は外で立っていました。どんな態度であっても矛盾していることが問題です。このように、子供は信頼が侵害されることを発見し続けます。

p,69

このようにして、人生を挙げて絶対に信頼できる存在を探すことになるのです。私がイーシュワラを一つの偉大な秩序として認識した時、私の意識の中で、私の理解の中で、イーシュワラは絶対に信頼できるものになるのです。実際、絶対に信頼できるものは秩序という形で現れたイーシュワラです。秩序の形である彼は、物理学的に絶対に信頼できるものであり、生物学的に全体に信頼できるものであり、生理学的に絶対に信頼できるものであり、そして心理学的に絶対に信頼できるものです。それは決して間違えたりしないので秩序と呼ばれるのです。無秩序とはなんのことでしょう?秩序があるからこそ無秩序があるのです。そのため、精神疾患を含め、あらゆる無秩序を理解することができます。

イーシュワラを父であり母であると認識して、私は自分の父と母に対する全ての負債を清算しました。イーシュワラへの気づきを人生に持ち込むことによって、私は秩序の中にあると見ることができます。

p,70

偉大なるセラピスト、イーシュワラ

恐れがある時、私はそれを沢山の言葉で迎え入れます。私が恐れを迎え入れた時、私はイーシュワラを迎え入れています。私は一歩後ろへ引き下がります。恐れは世界に対する咄嗟に起こる私の反応です。これは意識的な反応ではなく、潜在意識の反応です。潜在意識の反応には必ず、凍りついたままの子供がいて、私の反応をコントロールしています。ですから、その恐れを受け入れます。私は一歩引き下がります。そして、二段階の反応を行います。これは私がイーシュワラを歓迎して受け入れている事を意味します。これがイーシュワラの在り方であり、秩序の在り方です。一旦、このことに気がついたなら、咄嗟に起こる私の反応に関して、私は自分自身へのヒーラーになれます。私は意識的に自分自身のセラピストになります。実際に、私にとってイーシュワラは秩序という形をした偉大なセラピストです。なぜなら、イーシュワラは絶対に間違えませんから。

地元のセラピストはこう言うかもしれません。「ごめんなさい、私はあなたの言っていることがよく理解できませんでした(もう少し詳しく聞かせてください)」これは言わずと知れた決まり文句です。あなたはセラピストに相談します。なぜなら、他に誰も相談できる相手がいないからです。あなたはセラピストにお金を払って、そして彼に話をします。あなたは話すべきことについてとても関連性のある話をします; あなたが全てを打ち明けるのは、彼にお金を払っているからです。お金を払うことは重要であり、治療の一環でもあります。これは、自分の中にあるものを出し尽くす為の特別な方法です。これにより、あなたは心の風通しを良くします。

イーシュワラは決して間違えが無いという気づきによって、あなたはあなた自身を救います。イーシュワラの観点から、あなたは完全に正しいと認められています。他の可能性はあり得ません。イーシュワラはいつも笑って言います。「これが秩序である私に従ってあなたがあるということです。これは予測されていたことです」。あなたはイーシュワラを驚かすことはできません。

絶対に誤りのないイーシュワラはあなたに完全な正しさを与えてくれます。あなたが「神(ジーヴァ)は絶対に間違えない」と言うなら、神があなたの祈りに応えなければ、彼は間違いを犯し得る人ということになります。津波が来ると、「なぜ神はこのようなことをするのか」と疑問に思うかもしれません。この宇宙では、地球のような1つの惑星がその軌道を外して太陽に落ちても、象の上に乗っているノミのようなものにはなりません。つまり何も起こりません。先日、ブラックホールは星が燃え尽きて物質が濃くなり、すべてのものを引き寄せて形成されると本で読みました。光でさえも逃げられないのでブラックホールと呼ばれています。太陽系がブラックホールに消えても何も起こりませんでした。

想像を絶する広大な宇宙の中で、どんな出来事も祈りを込めて理解しなければなりません。イーシュワラへの気づきはあなたの無意識に働きかけ、人生を掌握できるようになります。無意識は、あなたの人生を支配している時間凍結されたままの子供です。これはイーシュワラの秩序です。意識的に潜在意識のお世話をしなければなりません。大人の私が子供の私のお世話をしなければなりません。子供は統合されなければならないし、外部の誰をも犠牲にすることなく、自分自身を表現することが許されています。あなたは子供の自分を抱きしめ、自分自身の影を受け入れます。これがイーシュワラの心理的な秩序です。イーシュワラの絶対的な正しさはいつも保たれています。

p,71

ダルマは人を基準にしている

イーシュワラの現れにはまた別の秩序があります。価値の秩序、ダルマの秩序です。ダルマだけがイーシュワラだとは言いません。ダルマは人間が世界と関係を持つために必要なイーシュワラのまた別の重要な顕現であり、世界と関係を持つことは自然にイーシュワラのこの部分に適合しなければならないと私たちは言います。ロードクリシュナはとても美しいことを言いました。「私はダルマに反しない願望の形をしています」これは、ダルマは人間のためだけであることを意味します。動物は何がダルマかを教えられてはいません。これを食べてはいけない、あれをしてはいけないなどと教えられた猿はどこにもいません。ニューヨークに行く牛にハンバーガーを与えたとします。パンのこの部分とあの部分を頂くでしょう。レタスを少しと、それから他にも…パンの間にあるものは人間のために残しておくと思いますか⁈(笑

p,72

すべての動物はダルマとアダルマに関わる選択から完全に解放されていますが、人間はどこでダルマに従うように言われなければならないのでしょうか。ある人は何年もべジタリアンで、何世代にもわたってベジタリアンであった家系に生まれましたが、今、彼は選択をしようとしています。彼は、タンパク質をどのように摂取するかの方法についての滑稽なアイデアを持っています。

願望を満たす為にダルマと摩擦することはできない

プログラムされている動物は、彼らが想定されているように、彼らの生活を送っています。彼らの願望は抑制されています。一方で人間の願望は全く抑制されていません。見たことがあるものだけに限らず、聞いたことがあるものも望むことができます。あなたは天国、楽園を望むことができます。抑制は消えています。イーシュワラは望む能力であるイッチャーシャクティとして完全に顕現しています。

p73

願望はイーシュワラの秩序の中にあり、それはイーシュワラの力です。したがって全ての人間の願望はイーシュワラです。神が「私は願望という形をしています」と言う時、彼のイッチャーシャクティ は顕在化します。それは全体です。あなたがより多くの野心を持っているとき、あなたはより多くのイーシュワラを持っています。願望をあらしめなさい。

イーシュワラは願望の形であり、ダルマの形です。願望を満たしている間、あなたはダルマと摩擦を起こすことはできません。なぜなら、どちらもイーシュワラですから。なぜダルマに従えと言われなければならないのですか?

それは、あなたには選択する能力があり、あなたは自由に望むことができるからです。自由はあなたに与えられている、あなたは自由意志(フリーウィル)を持っています。車では、プログラムされたフリーホイールが与えられています。前進、後進、左、右、または停止することができます。あなたはすべてのことを行うことができる自由意志を与えられています。自由意志が与えられると同時に、責任も与えられます。あなたが進化すればするほど、責任も大きくなります。

選択の自由は人に力を与える事もできるし、台無しにする事もできる

選択する能力は、その選択を上手に使う事もできるし、乱用することもできます。自由がなければ、選択の余地はありません。自由があるときは、選択の余地があり、乱用の可能性があります。乱用の傾向がある時は、内側に恐怖や不安があるからです。あなたの不安、あなたの嫉妬、あなたの不安全。

全てが争いになり、追求の条件になります。したがって、人は都合の良さゆえに選ぶことがあり、いつだって正しいから選ぶとは限りません。正しいことが都合の良いことであれば問題はありませんが、時として正しいことが都合の悪いこともあります。それなので都合の良い方を選びます。

p,74

それは誰かの角地にある空き地のを斜めに歩いているようなものです。警告するボードがあります、[不法侵入者は起訴されます]。あなたはボードを取り外して、歩きます。ボードがあるときだけ不法侵入をしています。人々は歩き続け、すぐに歩道を作ります。後に、彼らは長い間その歩道を使用していると主張します。土地の使用権を持っていなければならないし、所有者は土地を柵で囲うことはできません。これが現代のインドです。ほんの50年前のインドではなかったことです。あなたは何か間違ったことをして、長い間それをしてきたので、今は合法的にそれをすることが許されるべきだと言うのです。これはアダルマです。

満たされた時、罪悪感から解放される

ダルマな願望

ダルマに逆らうことが世の傾向ですが、願望を成就させる前にこの傾向を抑えなければなりません。あなたは、より多くの野望を抱くことができます。ロードクリシュナは、あなたがあなたの願望を満たすことはできると言いますが、彼は同時にダルマであるということを覚えておかなければなりません。あなたがダルマに従いながらも願望を満たすとき、あなたは罪悪感から自由です。ウパニシャッドはこの事実を認めています。これが成熟というものです。

p75

成熟した人は知恵を得ます。成熟はこれにのみであって、他にはありません。知恵は急に降りてくるものではありません。あなたは成熟した生き方をしなければなりません。あなたは完璧な男性、あるいは完璧な女性に成長しなければなりません。そもそも、完璧とはダルマに適合する能力のことです。あなたが成長すると、ダルマに逆らうことができないほど完璧になります。先ずはダルマに従うことを心がけましょう。あなたはダルマの形として現れている神に祈ります。「私がダルマに従うよう助けてください。」あなたは彼の恵みを呼び起こします。ダルマに従うことはそう容易なことではありません。特に、他の誰もがアダルマに従っている時には。あなたがダルマに従うためにはイーシュワラの恩恵が必要なのです。あなたはダルマの形で同じイーシュワラを呼び出しています。ダルマは神の普遍的な顕現であり、秩序です。

ダルマは普遍的なもの

あなたがされたくない事は、他の人にとってもして欲しくない事です。傷つけられたり、奪われたり、騙されたりしたくはありません。あなたは他の人に思いやりを持って欲しい、与えることや愛情を持って欲しいと思っています。これがダルマであり、それが私たちが与える行為をダルマと呼ぶ理由です。他の文化では、与えることをダルマと呼ぶことはありませんが、他の文化の人はそれを慈善事業(チャリティー)と呼んでいます。慈善事業は、あなたが慈善事業を行うときに恩着せがましい態度をとることを前提としているので、最も慈善的ではない言葉です。

私たちは、共生の生活を送っています。お互いを必要とし、助け合う必要があります。したがって、与えることはダルマです。これは然るべき義務なのです。私たちは人々が与えてくれることを期待しています。確かに、私たちは理解者であり、親身になって対応することができます。私たちは、他の人々に自分の限界を理解してもらう必要があるように、私たちは、他の人々の限界を理解することができます。この理解は、日々の生活の中で非常に意味深いものです。

p76

アダルマは罪悪感を生み出す

私たちにとってダルマはイーシュワラの現れであり、イーシュワラは法則の形で現れています。すべての事象は法則の支配下にあります。ダルマは法則の一面です。そして、ダルマの反対の側面にはカルマがあります。ダルマがあるとき、必ずカルマがあります。人はいつも「スワミジ、この人は沢山のアダルマをしているのに繁栄していますが、私はダルマをしてるのに、ちっとも進歩しません。彼は沢山のお金を持っています。私が言いたい事はつまり、彼は右手と左手を使いながら、テーブルの上でお金を受け取り、テーブルの下でもお金を受け取っているという事です。」と愚痴を言っています。

それは、その人のすべてのカルマがダルマに逆らっていることを意味します。ダルマに反することをすれば、当然そのカルマは結果;phalaを生みます。目に見える結果;dṛṣṭa phala だけではなく、目に見えない結果;adṛṣṭa phalaも含みます。その人は、間違いなく多くのお金を持っていますが、また、別のdṛṣṭa phalaとして、罪悪感を持っています。罪悪感を持たずしてアダルマを行う事はできません。成長とは、「どうして正しいことをしなかったのか、どうして間違ったことをしてしまったのか」を問うことにあります。*ヴェーダはこの “なぜ正しいことをしたのか、なぜ間違ったことをしたのか “について語っています。罪悪感は人が持つことができる最悪のものです。罪悪感のない人生とは、完全な人生を送るという事で、これが目に見える結果;dṛṣṭa phalaです。人がしでかした悪いカルマ;pāpaは、現世であっても他の人生であっても、間違いなく最も不愉快な状況の形で現れます。

*kimahaṁ sādhu nāṁkaravam.kimahaṁ pāpam akaravam iti (Taittirīyopaniṣad)

p,77

ダルマに反すると傷を生む

カルマの法則は、ダルマがあるからこそあるのです。カルマがあるところには、karma-phala;カルマの結果もあります。これが私たちのシャーストラ;聖典です。知的に生きるとは、ダルマとカルマの両方を意識することです。欲求は、それが満たされる必要があるならば、行動に移されなければなりません。あなたが自分の欲望に基づいて行動するとき、当然のことながら、ダルマに沿った行動があったり、ダルマに反した行動があるでしょう。法則とは、あなたがダルマと摩擦する行動を選べば、ダルマがあなたに摩擦し返してくるという事です。タマリンドの古木を見つけて、素っ裸の背中で木を擦ってみてください。それから木を見てください。木には何も起きていません。木は立っています;何かあったのなら、枯れた樹皮が落ちているくらいです。あなたは木をこすり、木はあなたを静かにこすりました。何もせずに、木が元々あったところに立っています。その後、あなたは背中が傷だらけでシャツが着られなくなります。あなたは木を擦り、木はあなたを擦りました。これが法則というものです。あなたが擦る時、あなたは擦る人であり、擦られる人なのです。これが法則です。行為および反作用は等しく、表裏一体です。これがイーシュワラの法則です。

あなたは、その過程において、摩擦を受けることなしにダルマに反する事はできません。これがカルマの法則です。知的に生きるということは、これらすべてを意識することです。自分の人生だけではなく、仲間である他の生き物のためにも責任を持つことです。社会のニーズを満たすために、社会が必要としているものがあれば、どこでもあなたが提供することができます。あなたができることをしなさい。人任せでは済まされません。先ずはあなたからです。やるべきことをやり始めなさい。そうすることで変化が起きます。

p78

あなたは百匹目の猿になるかもしれません

小冊子に「百匹目の猿になるかもしれない」という話があります。ある島に猿が住んでいました。かつて、そこで大干ばつがありました。食べ物がなくて、猿は飢えていました。ある日、猿が根を引き抜き、海水で洗い、それを食べ始めました。これを見ていた別の猿が繰り返しました。他の猿も同じことをし始めました。それから間も無く、百匹目の猿が根を洗って食べました。百匹目の猿が根を食べると、他の島の猿も同じことをするようになりました。ということで、本のタイトルは「あなたは百匹目の猿になるかもしれない」なのです。百匹目の猿は変化をもたらしました。私たちは、物事が起こるのを待つのではなく、物事を実現することができます。それが変化をもたらす方法なのです。私たちは、物事を実現する必要があります。

イーシュワラは認知上の秩序

イーシュワラのヴィジョンを様々な秩序の観点から吸収するとき、私たちはもう一つの秩序を含んでいます。様々な秩序を理解するためには、認識論的な秩序があり、それは知る力、知る手段という形で私たちの中に現れています。感覚器官は、理性的な思考に支えられて、プラマーナと呼ばれる”知るための手段”を構成しています。感覚と理性的思考だけがプラマーナ;知るための手段ではなく、私たちはもう一つのプラマーナ;知るための手段としてシャーストラ;聖典があります。これらはすべてイーシュワラとは別個ではありません。

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インドの村人は、地球に対する心の態度(認知)を持っています。彼は地球をただ単に土地や土や泥としては見ていません。彼はそれをブーミデーヴィとしてみています。村人のヴィジョンは、イーシュワラは一つの場所だけにいるとは見ていません。もし彼らのヴィジョンが外部からの影響によって損なわれていなければ、彼らはまだイーシュワラがどこにでも在ると感じています。それは、彼らの生活の中に、豊かな形で反映されています。