翻訳:Rina Ishizuka, Tomoko Mita
瞑想の定義
ディヤーナ厶つまり瞑想は、マーナサ・カルマ、考えレベルの行い(選択)を意味します。瞑想の定義は「サグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴィヤーパーラハ」、つまり、イーシュワラの姿を装ったブラフマンに関係した考えレベルの行いです。没頭した行いを意味するヴィヤーパーラハは、この定義では考えを意味する「マーナサ」という言葉によって修飾されています。ある言葉が形容詞によって修飾される時は、修飾される必要があるべきです。慎重に言葉を使う人は理由なしに形容詞を使いません。
言葉というのは意思伝達のためにあります。ある対象物を他の物と区別して伝えたい時に、形容詞を使います。高い木、と言うとき、「高い」という単語は形容詞となります。もし全ての木が同じ高さであるなら、高い木、低い木などと言う必要はありません。形容詞には名詞を修飾することで、他のものとを区別する性質があります。形容詞「高い」はこの木ほど高くはない他の木を否定し、他の木と区別します。しかし、「甘い砂糖」「良いサードゥ」とは言えないように、余分な形容詞もあるのです。もし苦い砂糖や酸っぱい砂糖があれば、「甘い」という形容詞を使わざるを得ないですが。サードゥというのはそもそも「良い人」のことです。なので「良いサードゥ」というのは言葉として存在しません。「メンタルな考え方」や「知的な知識」のような表現は確かに見られます。しかし、「デンタルな考え方」が存在しない限りは「メンタルな考え方」のような表現を使う必要はないのです。知識は常に知性において起こります。考えは常にメンタルなものなので、「メンタルな考え方」と言う必要はないのです。
もし瞑想が「考えレベルの」という言葉で修飾される「行い」なら、それは全ての身体的な行いを否定します。しかしながら、それは同じような「考えレベルの」他の行いも意味します。どんな想いも考えレベルの行いです。悲しみだって人の感情の表現であり、考えレベルの行いです。もしこれが瞑想であるなら、人は常に瞑想状態にあるのです。同じように、夢の中でも多くの考えレベルの行いがあり、そこでは人は常に瞑想状態にあるでしょう。
私たちは瞑想とは何かを理解する前に、他の似たような行いが瞑想であると見なされないよう、瞑想を他の考えレベルの行いと区別し、明確にしなければなりません。マーナサ・ヴィヤーパーラハという言葉においては、マーナサ、つまり考えレベルの、という言葉は他の行いと瞑想を区別する形容詞です。ゆえに、私たちはどんな種類の考えレベルの行いが瞑想を成り立たせるのか、はっきりさせなければなりません。定義とは、ある対象物を、同じグループに属する対象物からだけでなく、他の全ての対象物から区別することです。定義はただ一つのことを示すべきです。それにより、瞑想は明確な行いになるのです。
Isvaraを理解する
瞑想の定義「イーシュワラの姿を装ったブラフマンに関係した考えレベルの行い」は、イーシュワラを理解することなしには正しく理解することは出来ません。聖典は、全宇宙ジャガットの原因はブラフマンである、と言います。ジャガットは知られるもの知られざるもの、全てを包括します。ジャガットはブラフマンから生まれ、ブラフマンから離れてはいません。サグナ・ブラフマと呼ばれるブラフマンは、作者の姿をして現れます。サグナ・ブラフマはイーシュワラ、つまり全宇宙の原因である神です。原因という言葉はジャガットを現す知的な生き物(作者)だけでなく、創造と維持のために必要な材料も含みます。
ポットの作り手と土、つまり、ポットとポットの作り手は空間によって隔てられている、という場合とは異なり、材料の源は作り手から離れていません。ポットの作り手がポットを作ると、ポットは彼から離れた作品となり、異なる場所に存在します。ここでの離れている原因は空間ですが、空間それ自体がブラフマンの作品、創造物なのです。時間と空間もまたジャガットの一部です。古典的な物理学においては、時間と空間は絶対的なものであると考えられてきましたが、もはやそうではないのです。私たちは長い間このことを訴えてきました。タイッティリーヨーパニシャッドでは、世界は創造物であるというより、ブラフマンの現れであるという事実を大いに展開しています。ゆえに空間とは、ジャガットの一部なのです。作り手と材料が同一であるように、作り手から材料を引き離す空間など存在しないのです。そうして初めて、ジャガットは原因から離れていないという概念が探求する価値のあるものになるのです。もし作り手と材料が同一であるなら、原因もまた材料なのです。
ここでのロジックはシンプルです。あなたのシャツのように、作られたあらゆるものは、作り手を含むということです。ジャガットは知的に組み立てられています。つまり自然や物理の法則に従って維持されています。もしこうしたジャガットの様相をよく見てみると、ジャガットの作品は限りない知識と技能を持つ「知的な生き物」を含む、ということが明らかになります。もしジャガットが人間の創造物ならば、人が知識や技術を失ったときに、唯一の創造主となり得る、より大きな源から知識を探し出さなければならないでしょう。
仕立屋が生地を切って縫い合わせることでシャツを作るとき、生地はシャツにとって不可欠なものです。シャツがあるところには生地が存在します。シャツは材料から独立して存在することは出来ませんので。言い換えれば、材料から独立して存在出来る製品はありません。結果はいつでも材料という原因により成り立っています。結果はいわゆる上乗せされた価値なのです。シャツやパンツ、Tシャツまたはハンカチの形となっただけで、生地ということに変わりありません。生地は材料であり、出来上がった製品は生地から独立することはありません。生地や他の材料の存在しないシャツを想像してみてください。想像出来ないでしょう。シャツを思うと生地を思い浮かべるでしょう?しかし、シャツを思うこと無しに、生地を思い浮かべることは出来ます。
それと同じように、ジャガットはその原因から独立していません。イーシュワラの姿を装ったブラフマンは、まるで生地がシャツ全体に行き渡っているように、全宇宙ジャガットに充ち満ちています。このイーシュワラ、つまり全知全能の生きものは、宇宙として形作られたものにおける知的な原因であり、その宇宙を維持したり、回収する能力を持っています。そうでないと、誰かが何かを作り出すけれども、それを維持することが出来ないことになり、それはつまり全ての創造物が問題になり得るということです。誰かがそれを動かすことは出来ても、制御がきかなくなったそのものを止めることができない。もしそれを回収することが出来ないなら、そのものはフランケンシュタインのようにモンスターに豹変してしまいます。これは人類の限界を例示しているのです。
ジャガットはパワー、つまりシャクティを含む、現れた姿です。このジャガットの創造主イーシュワラは、材料の源であるシャクティから離れていませんので、全てに充ち満ちているのです。つまり、ジャガットの現れた姿に関連するブラフマン、つまり質をともなうブラフマンは、サグナ・ブラフマまたはイーシュワラと呼ばれるのです。
もしイーシュワラが充ち満ちているのならば、いくつかの疑問が浮かびます。彼は私にも充ち満ちているのかどうか?イーシュワラは「彼」なのか、それとも「彼女」なのか?全てに充ち満ちているイーシュワラなら、間違いなく私のこの体、考えや五感までも含まれるはずです。材料の源という観点からすると神は女性であり、作り手という観点からは神は男性です。こうしたイーシュワラの両側面はアルダナーリーシュワラとして現れた姿に見られます。ダクシナームールティは、両耳に異なるイヤリングをつけた姿で描かれ、それは神が「彼」であると同時に「彼女」でもあることを示しています。
もしイーシュワラが私に充ち満ちているなら、なぜ私は未だに「私」を「個人」として認識しているのでしょうか?私の「個人」としての意識は、私の体の末端までにしか行き届いていません。例えば、もし弾丸が私の指と指の間の空間を通り抜けたら、「神様ありがとう!弾丸に当たらなかった!」と言えるでしょう。私は指の中に存在するのであって、指と指の間にある空間には存在しませんから。「私が存在する場所」と「私が存在しない場所」があるように、イーシュワラから切り出された私のための場所があります。それが「身体」です。ちょうど森は木に充ち満ちているけれど、木は森に満ちていないように、イーシュワラは個人に満ちているけれど、個人はイーシュワラに満ちてはいません。これは関係性のレベル、個人のレベルの例えです。海から起こる波は海に属していて、海と一体であるのに、ある波は自分を「大きな波」だと認識し、別の波は「小さな波」だと認識します。波は現れたり消えたりします。海は「波くん」に充ち満ちているのに、「波くん」は自分自身の居場所や運勢やサイズを持つように。同じように、あなたはイーシュワラと繋がっています。ゆえに、イーシュワラとは、この繋がりを思い出す為のあなたの祈りの対象であり、瞑想はこのつながりを強調する行いなのです。
イーシュワラはラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、ジーザスやアッラーと呼ばれることがあります。いかなる名で呼び起こしても神は困惑することはありません。もし神が困惑するならば、間違いなく彼はイーシュワラ、神ではないでしょう。神はおのおのの姿で呼び起こされ、やがてその祈りが特別なもの、つまり祈りの対象であるバガヴァーンへの直接的な行いになるのです。「全てはイーシュワラである」とは、全ての姿形がイーシュワラであり、彼はどんな姿としても呼び起こすことが出来ることを示唆します。
イーシュワラは太陽、月、地球など、自然界のいかなる要素としても呼び起こすことが出来ます。全ての自然現象はイーシュワラの現れた姿です。全体はどんなものからも離れてはいないからです。もしあなたが海に触りたいなら、ボートに乗って海に触りに行く必要がありますか?海の全ての部分に触らなくてはならないでしょうか?いいえ、必要ありません。岸に打ち寄せる小さなさざ波に触れることは、海全体に触れるのと同じことです。太陽、月、星たち、海や波といったどんな顕現であれ、イーシュワラを呼び起こす為の祈りの対象にできるのです。
伝統的に、イーシュワラが現れた姿には、何らかの名前が付けられています。あなたが特定の神の名前を思うとき、イーシュワラを思い出します。私が「ラーマとは誰か?」と聞けば、あなたは「ラーマはアヴァターラ、バガヴァーンの現れた姿です」と言います。ここには何ら問題はありません。同じように、もしヒマラヤでサードゥに「ラックスって何ですか?」と聞けば、彼は世俗社会から離れているにも関わらず、それが石鹸であると知っているでしょう。バスソープを代表する 「ラックス」という名前は、彼の頭の中に記憶として留まっているのです。この石鹸を製産するユニリーバという会社は、いくつかの文字を一緒にして、それを「ラックス」と名付けました。もっと言えば、ユニリーバは優れたマーケティングを成し遂げました。沢山の石鹸ブランドが溢れているけれども、「ラックス」はあなたのお気に入りの石鹸になることが出来たからです。
それと同じように、ラーマ、クリシュナといった名前は神の姿です。私が「神を思い浮かべなさい」と言えば、あなたはすぐにお気に入りの神の姿を思い浮かべるでしょう。これはあなたのイシュタデーヴァターと呼ばれます。ユニリーバはあなたにとってお気に入りの石鹸になるために、莫大なお金を費やしました。ここでは、一銭も使うことなく、あなたはラーマやクリシュナといった、あなたのイシュタデーヴァターの姿にイーシュワラを想うことができます。こうしたイシュタデーヴァターを与えてくれた先祖たちに感謝しなければなりません。
イシュタデーヴァターのディヤーナには2つの意味が含まれます。第一に、イシュタデーヴァターは特定の姿を持ちます。ここでは、私たちはその姿形を崇めているのではなく、その姿の中にある神性さを崇めているということを、はっきりさせなければなりません。そこには偶像崇拝といったものは存在せず、ただ神への崇拝のみがあります。祈りを理解していない人々が「偶像崇拝」と呼ばれるものを考案したのです。私たちはある特定の偶像や材料となる石を崇めているのではありません。もしそうならば、道端の全ての石を崇めなければなりません。そうではなく、私たちはそれが石であれ木であれ、特定の姿形に全体であるイーシュワラを思い起こしているのです。時に、私たちはガナパティプージャにおいては、ターメリックの塊の中に神を思い起こします。ターメリックの中にガナパティを思い起こすことにより、ターメリックではなくガネーシャを崇めているのです。このようにイーシュワラをあらゆるものの中に見出す能力は、私たちの文化と宗教的伝統の深淵さから生まれているのです。
ヴィヤーパーラ(व्यापार):専心のある行いのカテゴリー
ヴェーダの伝統によれば、すべての行いは3つのカテゴリーに分類されます。これらのカテゴリーは、行いの種類や結果によってではなく、行いの様式によるものです。あなたは、様式の違いで分けられた特別な行いによって、イーシュワラと関わることができます。第一は、身体による行い:カーイカムです。第二は言葉による行い:ヴァーチカム、第三は考えによる行い:マーナサムです。つまり、カルマ(行い)には3つのタイプがあります。
プージャーは身体が関与しているため、カーイカム・カルマです。プージャーを行うときには、神のための祭壇があり、神はラーマ、クリシュナ、シヴァなど、どのような姿でも呼び起こすことができます。ランプを灯し、花とお香を供えます。唱え、ひれ伏し、アーラティの火をかかげて捧げます。これらは文化的な崇拝の形式です。プージャーはカルマ(行い)であり、儀式の形をした行いです。したがって、プージャーは身体による専心した行いであり、カーイカ・ヴィヤーパーラハです。カーヤとは、手、言葉、考えを含む身体のことです。また、プージャーに必要とされるお供えやランプのオイルなどの材料や祭壇も含まれます。
他の行いとは違い、カーイカム・カルマは結果を生み出します。つまりアドルシュタ、グレースを生み出すという点において、他の行いよりも効果的な行いと言えます。私たちは将来どんなことが起こるか知るよしもありませんので、沢山のグレースを必要とします。グレースを生み出し、集めるのです。グレースは慈善行為を通しても、生み出すことが出来ます。井戸やお寺を建設するといった、公共利益のための行いもグレースを生み出します。そのような行いはプルタ・カルマと呼ばれ、沢山のグレースとプンニャを生み出します。グレースは、神が毎日与えてくれるものではありません。グレースは個人により生み出されます。神がくじ引きを引いて今日は誰がグレースを得られるかを決める、といった類のものではありません。それは可能性であり、立派な行いの結果であるパラなのです。どのような行いが現世で良い結果をもたらしたのか、私たちにはわからないので、それを「グレース」と呼ぶのです。生きていることすらも、グレースの一例なのです。
人生には様々な種類のプンニャがあり、それが時に、このような知識を与えてくれ、時に、宝くじで勝たせてくれたりするのです。プンニャは今回の人生や別の人生で集められ、あなたに人生を与えるカルマの一部を形成します。グレースとは、適切なタイミングに適切な場所にいるための原因であるカルマ・パラを意味する、美しい表現なのです。そうでなければグレースのようなものは存在しません。グレースというのは、私たちが(行いによって)稼いだものだけなのです。グレースは、行いの結果として望ましい肯定的なものです。
カーイカム・カルマがプージャであるなら、キルタンつまり賛美歌の暗唱は、ワーチカム・カルマと等しい意味になります。キルタンにおいては身体的な手足は使われません。ワーチカム・ヴャーパーラハは祈りの歌を歌うこと、ヴェーダ(聖典)の暗唱や勉強を含みます。そして最終的には、マーナサム・カルマにおいて、あなたは純粋にメンタルなレベルで神と繋がります。メンタルでイーシュワラと繋がる行いが瞑想です。例えば、「ハレーラーマ、ハレーラーマ、ラーマラーマ、ハレーハレー、ハレークリシュナ、ハレークリシュナ、クリシュナクリシュナ、ハレーハレー」とマントラを唱えるとき、あなたはラーマとクリシュナ、つまりハリへ呼びかけています。イーシュワラを意味する「ハリ」という言葉は、問題を解決する人、全てのパーパを取り除いてくれる人という意味です。
これら二つのカルマ同様、瞑想もまた結果を生み出します。瞑想は、その行い自体が即効性のある結果を生み出します。マントラを繰り返すうちに、そこにはラヤ、つまりある種の没頭が起こります。ゆえに、瞑想の結果は目に見えるのです。瞑想は若干のアドリシュタ・プンニャ(目には見えない良い結果)を生み出しますが、ワーチカム・カルマは瞑想よりもアドリシュタをもたらします。最大のプンニャは、カーイカム・カルマだけに存在します。3種類のカルマはすべてプンニャを生み出しますが、カーイカム・カルマは、3つのカルマ(崇拝のための道具)がすべて使われるため、アドリシュタを生み出す可能性が最も高いのです。
考えの性質
瞑想の定義は、既に見た通り、「サグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハ」、つまり、祈りの対象物である神に対する考えレベルの行いのことです。
(質を装って現れたブラフマン、イーシュワラに関係した考えレベルの行い)サグナ・ブラフマはイーシュワラ、神です。瞑想の”目に見える結果”について見てみましょう。これを理解するためには、考えの性質を深く理解する必要があります。考えは常に忙しく、落ち着きなく絶えず動いている、という性質を持ってます。バガヴァッドギーターにおいてアルジュナはこう言います。「クリシュナ、考えは『落ち着きがないもの』であり、頑固で根深い暴君です。風をコントロール出来ないのと同様に、考えをコントロールするのは不可能だと思います」。絶え間なく動いているという性質それ自体が考えです。考えは凝り固まっていて、荒れ狂っていて、そして非常にパワフルです。それでは、どうやって人は座って瞑想することが出来るのでしょうか。
考えの性質は映像カメラのフィルムのようです。それは常に動いています。フィルムはある一定のスピードで動いていますので、動きを記録することができます。それぞれの動きは多くのコマから成りますが、各コマは動かず、静止しています。コマがある一定のスピードで動くとき、映像の様相を成します。これは、考えのコマも動きに合わせて変化していることを意味します。こうした移り変わる性質を持った考えは、「瞬間ヴルッティ」と呼ばれます。このような考えの形のことを、サンスクリット語でヴルッティと呼び、ヴルッティは当然、瞬間的なものなのです。
考えの性質を見るとき、それが一つの対象から別の対象へどう動いていくかを観察するのはとても面白いものです。そこには同時にわだち(考えが進むパターン)が沢山あり、考えが次にどのように、どの道に進んで辿り着くか、誰も知る由もありません。例えば、歩いているときメルセデスベンツの車が目に入ります。それはあなたの関心を引きます。あなたはドイツを思い、ヒットラーを思います。ヒットラーを思うことなしに、ドイツを思うことは出来ません。ヒットラーを思うと、必然的に気持ちが落ち込みます。考えはベンツからドイツへ、ドイツからヒットラーへ、ヒットラーからホロコーストといったものへ辿り着きます。この考えの流れは、ただ車を見ただけで生じたのです!
もう一つ例を挙げてみましょう。私はホンダを見ました。インドのホンダは、母音のoの音価で「ホンダ」と発音します。ホンダは揚げ菓子の「ボンダ」と韻を踏んでいます。このように、私の心はホンダからボンダへと移動します。ボンダというと、私の知っている話を思い出します。かつて、ケララ州から来たとても正統派な男性が、娘の縁組のためにチェンナイからマイソールまで列車で行こうとしていました。彼が列車に入ろうとしていたとき、行商人が「ポンダー、ポンダー!」と叫びながらやってきます。マラヤーラム語で「ポンダ」とは「行くな」という意味です。「ポンダ、ポンダ、行くな、行くな!」彼が娘の縁組のために旅に出ようとしていた矢先、この行商人がやってきて、何度も「行くな」と言っているようだったのです。非常に正統派であるため、男はそれを悪い兆しとして解釈しました。彼は、もしかしたら行かない方がいいのかもしれないと思いました。ちょうどその時、列車が出発しようとしていたので、人々は乗車するところでした。彼は勇気を出して、この前兆を見ぬふりをしました。
結局のところ、それはただのものを売る行商人でした。それは彼への個人的なメッセージではありませんでした。汽車に乗り込もうとした時、行商人が戻ってきて「マイソール・ポンダ〜、マイソール・ポンダ〜」と叫びました。マイソール・ポンダは特別な種類のボンダです。今や男はこの不吉な言葉を無視することができなくなりました。彼がマイソール行きの列車に乗って座った時、行商人は「マイソール・ポンダ〜、マイソールに行くな!」と言います。男は「大変だ!このメッセージは私へのものに違いない!彼は私にマイソールに行くなと言っているのだ!」と思い、旅行の計画をキャンセルして帰っていきました。さて、この話はどこから始まったのでしょうか?これが私たちの考えの動きです。単なる韻を踏むだけで、考えはその通りに動きます。このようにして、考えは一日中忙しく動いています。これが考えの性質というものです。
彼がマイソール行きのコンパートメントに乗っている間に、業者は「マイソール・ポンダ、マイソールに行くな!」と言います。このメッセージは私だけのためのものに違いない!彼は私にマイソールに行くなと言っている。マイソールに行くなと言っているのだ!」と思い、男は旅行の計画をキャンセルして帰っていきました。さて、この話はどこから始まったでしょうか?これが私たちの心の動きです。単なる韻を踏むだけで、心はその通りに動きます。このようにして、心は一日中忙しく動いています。これが心の本性というものです。
考えることは人間に与えられた特権です。しかし、考えることで不安になったり、落ち込むことも多く、それは問題にもなるのです。考えることなしに心配になったり、悲しくなることはありません。深い眠りの中では考えることをしないので、悲しくありません。同様に、考えることなしには怒ることも、感情の呪縛に入ることもできません。考えのプロセスは無意識のものなので、それに対して何も言うことができないと考えがちです。例えば、私があなたに対して「今、怒ってください」と言っても、あなたは応じることができません。なぜ怒らないことができるのでしょうか?あなたが怒ることができない、というのは真実ですか?怒ったり悲しんだりすることを意識的に選ぶことはできないので、誰かが怒っているときに「怒らないで」と言ってもあまり意味がないのです。怒りの感情はあなたが怒りたくない時でも湧き起こるものなのです。
ある人が私に「スワミジ、私は全く怒らないよ」と言ったことがありました。さて、彼が「怒らない」と言っていただけに、私は彼を試してみたくなりました。私は彼に「あなたは怒るでしょう!」と言ったのですが、彼は「いいえ、スワミジ、過去4年間、私は全く怒っていません」と答えました。私は「あなたは怒るでしょう」と粘り、さらに「どうやって怒らないようにするのですか?私はあなたの父を知っていますし、あなたの祖父を知っています、あなたが怒ったことがないということを確かめることもできますよ」。彼は冷静さを失い、「スワミジ!私の父と祖父をこの件に巻き込まないでください。いいですか!」(笑)。心は自動的なものなので、心のある状態に対しては何も言うことができません。自由意志を使って行動を選択する前に反応してしまうのです。
心を制御する
心のコントロールをすることができる論理的な方法がありますが、それは私たちの聖典によって明らかにされた方法です。意図的に選んだ行為に心を向けることで、心をうまくチャネリングすることができます。この特別な行為は、イーシュワラに関係しています。もちろん、心はどんなことにでも没頭することができますが、イーシュワラに関係する行為を選ぶことは非常に重要です。イーシュワラに関わるというのは、「オーム・ナマ・シヴァヤ」と唱えて行う行為です。このような聖者によって与えられたヴェーダのマントラはたくさんあります。これらのチャンティングでは、「シヴァ」や「ナーラヤナ」という言葉でイーシュワラを呼び起こし、神に敬意を表します。これがジャパ瞑想であり、先に述べたサグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・ヴャーパーラハという精神的な行為です。
神の名前を繰り返すプロセスは、最初に神の名前を唱えた後、マインドは再び同じことを唱える確率が高いことが確かなものとなり、マインドは予測可能なものになりえます。唱えることを選んだということは、いわゆる「注意がそれた」ことを見極めることができる行為を自分に与えたということです。ジャパの間に自分が決めたこと以外のことを思うと、注意がそれたことが分かります。例えば、真剣に数学の問題を考えていて、それを解こうとしている時に、その時に「オーム ナマシヴァヤ」と唱えれば、それは注意がそれたことになるでしょう。
「雑草」という言葉のように、「注意がそれる」というのは相対的な言葉です。花壇の草の束が雑草になるのは、あなたが花を育てようとしている時だけです。逆に、芝生があれば、草は全く雑草ではありません。その時点で、他の何かが雑草に分類されます。実際には、雑草というものはなく、草木だけがあります。草は自分が雑草だとは思っていません。この例から、雑草とは、あなたが庭に入れたくないと思っているものにすぎないということが理解できます。同様に、注意がそれることもまた相対的なものであり、特定の時点であなたが何をしたいかということを基準にして初めて適合します。
意図的に自分自身を何か特別な考えに没頭させようとしたら、何が起こるか見てみて下さい。オーム ナマシヴァーヤ、オーム ナマシヴァーヤ、オーム ナマシヴァーヤ、オーム ナマシヴァーヤと唱えていると、ふと同僚のシヴァラムのことが頭に浮かんできます。「昨日も今日もオフィスで彼を見なかった、彼に何かあったのだろうか?そういえば、彼は奥さんが入院したと言っていたな・・」。さあ、今何が起こったでしょうか?オーム ナマシヴァーヤは完全に消えてしまいました!普通の考え方をしている限り、これは自然な流れです。
しかし、チャンティングをしていると、このようなプロセスはチャンティングへの集中を妨げるものになってしまいます。これは、自分の考えに対して発言権(主導権)を持つための賢い方法です。人は自分を鍛えます。子供たちが幼い頃からマントラを唱えるのは、それが理由です。したがって、自分がしようと思うこと以外のことは妨げになります。考えが彷徨うたびに、あなたはそれを呼び戻します。「バガヴァッドギーター」の中でクリシュナ神は、考えの本質は離れ去ることであるが、瞑想の目的はそれを呼び戻すことであると説いています。最初のうちは、考えを呼び戻すことは難しいかもしれませんが、練習を続ければ簡単にできるようになります。練習をすることで、考えをすぐに元の軌道に戻せるようになるのです。
私たちは考えを呼び戻すとき、人生のさまざまな局面で関わってきた考えの種類を考察するためのスペース(ゆとり)を、自分自身の中に見出します。このようにして、私たちは意識的に考えのパターンを選択し、徐々に考えをコントロールできるようになります。実際に私たちは持つべき考えの種類を選択することができ、その過程で何らかの恐れや不安を発見することがありますが、絶望的な状態に陥る必要はありません。私たちが持つ恐怖のほとんどは、幼少期に遡ることができます。それはパッケージ化されています。子供の頃は、誰もが無邪気で、誰もが恐怖や心配、不安を抱きます。これらの恐れが未解決なままであるとき、それらは無意識の考えの一部となります。最初の恐怖を思い出させるような人や状況に出会うたびに、無意識の考えが引き起こされてしまいます。そのため、人生を通して、こうした不安が私たちをコントロールし続けます。「無意識の考え」というのは現代の心理学者が使う言葉ですが、私たちのシャーストラはそれを「カシャーヤ」と呼んでいます。カシャーヤとは色づくこと、染まることです。
無意識の影響を克服する鍵は、考えのパターンをどう扱うかを知ることです。そうして初めて恐れを受け入れることができます。恐れを歓迎するためには、スペースが必要です。恐怖心を克服する方法をパンディタ、学者、あるいはスワミに尋ねると、多くの場合、ハヌマーン・チャーリーサを唱えなさいと勧めるでしょう。ハヌマーン・チャーリーサはあなたを百通りの方法で祝福してくれますが、恐怖心を克服するのには効果がありません。1ヶ月ほど経ってあなたはこう言うでしょう。「スワミジ、私はハヌマーン・チャーリーサを唱えてきましたが、何も起こりません、私にはまだ恐れがあるのです」なぜだか分かりますか?なぜなら、あなたが恐怖心から離れようとするとき、その恐怖心に対する恐れを持っているからです。恐怖心はハヌマーン・チャーリーサの効果とは何の関係もありません。
恐れを取り除く必要はありません。むしろ、恐れは歓迎されるべきものなのです。死への恐れがあるとしましょう。それは無意識の心の一部であり、幼少期にまで遡ることができます。実際、この場合、あなたは死を歓迎していません。あなたは死を歓迎する必要は全くありません。なぜなら死が訪れるとき、あなたはそれを受け入れるしかないからです。死の良いところは、死は一度しか来ないということです。私が死の恐れを例に挙げる時、ある出来事への恐れ、名声、名前、地位、身分、権力、仕事などを失うことへの恐れを意味します。このような恐れは歓迎すべきものです。恐れを歓迎するとき、恐れは存在しません。
人間の心理学を理解する必要があります。これはとても慎重に扱わなければなりませんし、責任の重い仕事です。私たちのような教師は、しっかりと責任を持たなければなりません。私たちが助言をする時には、責任を持って行うことが大切です。だから、他の考えや追求にそらすことで恐れを避ければ避けるほど、恐れはますます定着していきます。もしあなたが恐れを歓迎するならば、あなたは恐れを恐れることはありません。そうでなければ、あなたは恐れに対する恐れの恐れの恐れ・・と、全身が恐れの束になってしまうのです。
恐れを歓迎すると、それはまさに魔法です。あなたは「私は恐れを歓迎します、恐れを恐れてはいません」と言うことができ、直ちにあなたはスペースを持つことができます。このスペースは瞑想から来ています。そうでなければ、それを言うことさえ非常に困難なことです。恐れの魔法にかかっていると、私が恐れを歓迎するように助言したことは忘れてしまうでしょう。代わりに、あなたは、「いや、いや、私は恐れを歓迎することを恐れている。恐い、恐い・・」と思うでしょう。したがって、スペースはあなたの内側で発見されなければなりません。こうした点から、瞑想は役に立つのです。内側にスペースを見つけられることは瞑想の即時の効果です。瞑想は、あなたがスワミになれるように、あなた自身の感情や考え方を見つめるスペースを与えてくれます。スワミとは心を統括している人のことです。誰でもスワミになることができます。
瞑想者の性質
次に私たちが見ていかなければならないのは、「瞑想する人とは誰か」ということです。いきなりどこかに座って瞑想することはできませんので、とても重要なことです。瞑想する人がいるはずです。瞑想する人は、あなたの中のベーシックパーソンです。これからこの練習について見ていきます。あなたの中のベーシックパーソンとは、あなたが目を開けた時に私を見る人のことです。私を見て、あなたの目の焦点を私に当ててください。それで、私を見ないようにすることができますか?あなたはそれができますか?それは不可能です。あなたは、見ることは意志に基づくものではないという事実を理解します。拍手は意志によって行われます。見ることは意志に基づくものではありません。それは、視覚または目の対象物に基づいています。目が開いていて、対象物が目の前にあれば、あなたはそれを見るでしょう。自動的に光景が繰り広げられます。この見ている人はベーシックパーソンであり、行い手は後から来ます。同様に、あなたは最初に花を見て、次にそれを摘み取るために進みます、特にそれがあなたの隣人の花であれば。花を見ることは意志に基づく行いではありませんが、花を摘む行い手は意志を使っています。
認識する人(ここでは五感の対象だけを認識する人)はベーシックパーソンであり、大抵は好みに左右されません。ベーシックパーソンは高い客観性があります。例えば、あなたは丘を見たら「これは丘だ」と言い、バスを見たら、あなたにとってはただのバスです。音を聞いても、それは音であり、ただそれだけです。後になってから、自分の好き嫌いに応じて、やりたいことを選びとっているのです。グプタジ、シャルマジ、三人目のミシュラジの三人が近くに立っているとします。
あなたがグプタジに声をかけると、彼は返事をし、シャルマジに声をかけると、彼は返事をします。同じようにミシュラジに声をかけると、彼も返事をします。そして、あなたが「そこの馬鹿」と呼ぶと、3人とも反応しました。しかし、彼らは何を聞いたのでしょうか?彼らは「そこの馬鹿」という言葉しか聞いていません。耳は「そこの馬鹿」という言葉の意味を考えず、鼓膜が振動しているだけですが、「そこの馬鹿」という言葉の意味が反応した人によって知られていたので、音の意味が拾われました。「誰かが私を呼んでいる」と思って反応するのです。「誰かが私のことを馬鹿と言っているのはなぜだろう」と考えます。それは、あなたがその考えを受け入れたからです。昔、子供の頃、誰かに馬鹿野郎と言われたのですね。あなたは不快に感じ、「自分は馬鹿じゃないのに、なんで馬鹿呼ばわりされたのだろう」と思っていましたが、だんだんとその考えを受け入れてしまったんですね。「自分は馬鹿なのかもしれない」という疑念があるからこそ、3人の男はみんな反応したのです。この例を見ると、認識が先に来て、反応は後から来ていることがわかります。基本的には、あなたは認識する人です。この人、この個人こそが瞑想する人なのです。認識している人が瞑想する人になる為の方法があります。
個人は常に自分以外の何かと関係しています。関わりを持たない個人などいません。この体と考えと感覚の複合体に閉じ込められた個人として、私はジーヴァであり、木が森と関わりを持つように、全体に関わっている個人です。木は森だけでなく、他の木々とも関わりを持っています。同様に、個人として、私は他の個人と関わりを持っています。例えば、私は両親にとっての息子です。ここですら、私は父と母に対して違った関わり方をするでしょう。私は父にはあることを話すかもしれませんが、母には話さないでしょう。繰り返しになりますが、父に対する私の怒りは、母に対する私の怒りと同じではありません。このようにして、私は両親にとっては息子か娘であり、兄弟にとっては兄か妹である、というように続いていきます。祖父母の立場からすると、私は孫や孫娘になります。配偶者との関係では、私は夫や妻になり、子供たちにとっては父や母になります。
これらの多様な関係性の中には、たった一人の個人が存在しています。この一人の人間は、息子、父、娘、母、夫、妻、姉妹、兄弟、叔父、叔母、友人、雇用主、従業員など、様々な個人と関係しています。私が両親との関係性から自分を考えるとき、私は息子か娘ですが、次の瞬間、たまたま兄を見たり、考えたりすると、私は妹になります。このような個人の意識のシフトは、極めて自動的に行われています。叔父は息子に、息子は父親に、というように、その人は常に別の人に置き換えられたり、入れ替わったりしています。
さあ、ここでの質問は、あなたが神を考える時に何が起きるか、ということです。この時点で、あなたはもはや父でも、息子でも、娘でも、叔母でも、祖母でも、敵でもありません。あなたはただ神と関わりのある個人であり、バックタ(帰依者)なのです。このバックタ(帰依者)はイーシュワラと関わりを持った時に生まれてくるのです。それは何を意味するのでしょうか?イーシュワラと関わりを持つことは、他の個人と関わりを持つこととは違います。なぜなら、イーシュワラは個人である彼らの中の一人ではないからです。このことを理解することはとても重要です。イーシュワラを理解することなくして、イーシュワラと関わりを持つことはできません。
一瞬のうちに生まれ、今来たかと思うと去っていくような突発的なバックタ(帰依者)はありえません。同じように、何度か繰り返す発熱のように、数分間だけ献身的な行いをとり、それが終わると消え去る、ということもあり得ません。ここにあるすべてのものがイーシュワラであるならば、イーシュワラは全体であり、何からも切り離されてはいません。森の中の一本一本の木は、森によって常に行き渡られていて、森全体を認識しているように、バックタ(帰依者)もまたイーシュワラと同じような関わりを持っています。この関わりは常にあります。それはかけがえのないものです。これは客観的な事実であり、だからこそ瞑想中はリラックスする必要があるのです。リラックスすることで、客観性を養うことができるのですから。
客観的であるということは、個人としての私が、生きている全体、つまりイーシュワラとの関わりを持ち続けているという事実を認識することです。私は生き物であり、全体も生き物であるため、私は常に生きた全体と関わっています。このイーシュワラを全体として認識することで、バックタの中にこの事実が呼び起こされなければなりません。したがって個人の内側にこのバックタを認識した後、その人は父、母、息子、娘などの役割を引き受けなければなりません。ですから、私はバックタである父であり、バックタである母であり、バックタである息子であり、バックタである娘なのです。バックタは様々な役割を担いながら、イーシュワラを認識しているベーシックパーソンです。
私たちの最大の問題は、私たちが時々バックタである事です。ある時は「夜のバックタ」、また別の時は「日曜日のバックタ」であるというように。目的は、すべての関わりにバックタが浸透することです。これを「ヨーガ」と呼びます。私が個人としてそのイーシュワラと関わるとき、私は全体とのバランスを取り戻します(正常な関係に戻す)。ですから、瞑想に先立って、人はまずバックタを顕在化させなければなりません。瞑想それ自体は、個人からバックタを引き出すものではありません。それどころか、実際に瞑想をする前に、まずはベーシックパーソンに親しみを持っておく必要があります。私には毎日たくさんの人と会う約束があります。瞑想を始めたなら、「今は私は神と向き合う時間である」と考えることができます。それは自分自身と向き合う時間です。自分自身と向き合う時間を持つということは、叔父、義理の人、夫、妻、母親、父親の役割を降りなければならないということです。すべての役割を手放すのです。
したがって、人が瞑想者に達するためには、その人が完全に客観的である必要があります。このベーシックパーソン、個人、意識的な存在は、全体であるイーシュワラと関係を持ち続けています。森の中の木がその事実を認識しているかどうかにかかわらず、木は森と関係を持ち続けています。森が木に行き渡っているということは、すでにある事実です。しかし、ちょうどイーシュワラである全体とのつながりが、個人にはあまり認識されないように、このすでにある事実は木に認識されていません。多くの場合、イーシュワラは人間の考えの中を行ったり来たりしているのです。したがって、マーナサ、ワーチカ、カーイカムのカルマは、全体への認識を妨げているものを取り除き、個人の中に全体への認識を定着させるために必要不可欠なものなのです。カルマは目に見える結果と目に見えない結果の両方を生み出しますが、これは個人が自己認識をするための準備として不可欠です。
ベーシックパーソンはすでに緊張から解放されているので、人は緊張から解放されようと努力する必要はありません。緊張は知らず知らずのうちに起こるものなので、自分でほぐしていかなければなりません。身体と考えを客観的に見て、自分を解きほぐすことを学ぶにつれ、緊張から解放されます。あなたは当然のように自分が無知で限られた存在であると思っているので、あなたが得たどんな知識も自分自身についての無知の上に投影されているのです。そして、正しい自己認識の後には無知が去ってしまいます。もし無知が一時的な性質を持っていて、消えてしまう可能性があるならば、実際のところ、私たちは何の知識も得てはおらず、ただ無知を取り除いているにすぎません。これは、私たちに知られていようが知られていまいが、知識というのはすでにそこにあり、無知、自分自身についての無知によって知識が隠されていただけだということです。知識はイーシュワラと結びついています。実際、イーシュワラは全知です。イーシュワラがあなたに行き渡っているので、あなたはこの知識にアクセスする能力を持っています。「知識とは無知を取り除くこと」と定義されていますが、これは自己認識を含むすべてのものに当てはまります。あなたはすでにサムサーラからも、自分は限られた存在だという観念からも解放されています。あなたは自分が自由であることを知る必要があるだけなのです。
瞑想する人に対するクリシュナ神のガイド
「バガヴァッドギーター」の中で、クリシュナ神は私たちに段階的に瞑想を教えます。瞑想する人についての重要なポイントを、次のように述べています。「吸って吐くリズミカルな呼吸のパターンを確立した後、外側の物を外側において、瞑想することができますように」。私たちは「感覚の外にある世界」、つまりクリシュナ神の言う「外側の世界」とは何かを分析する必要があります。感覚器官は、色、音、匂いなどの形で考えに外側の世界を報告するものです。これらの形は、感覚器官にとってはすでに外側ですから、外側のものがすでに外側であるとき、どうしたらクリシュナ神の助言に従うことができるのでしょうか?ここで学ぶべき大切なことは、すべての物事は私たちの外側にあるのではなく、内側にもあるということです。確かに星は外側、月は外側、山は外側にありますが、私たちが知っている人のこととなると、外側のものが内側になっていることがよくわかります。日常的に接している人は、知らないうちに密航者のように私たちの頭の中に積み込まれていきます。瞑想をする前に、まずこうした人たちを頭の中から降ろす必要があります。つまり頭の中から解放する(手放す)必要があります。
* स्पर्शान्कृत्वा बहिर्बाह्यांश्चक्षुश्चैवान्तरे भ्रुवोः| प्राणापाणौ समौ कृत्वा नासाभ्यन्तरचारिणौ||
यतेन्द्रियमनोबुद्धिर्मुनिर्मोक्षपरायणः| विगतेच्छाभयक्रोधो यःसदा मुक्त एवसः||(5.27−28)
人が頭の中に入ってくるのは、その彼や彼女に変わって欲しいと思うからです。夫は結婚した日から妻を変えたいと思っていて、妻は結婚が始まる前にも夫を変えたいと思っています。お互いに変えようとしているうちに25年が過ぎていきます。人を変えることは、本人が変わりたいと願わない限り不可能です。クリシュナ神はイーシュワラの化身であるにもかかわらず、ドゥルヨーダナを変えることはできませんでした。誰も誰かを変えることはできないけれど、誰かが変わろうとするならば、誰もそれを止めることはできません。バガヴァーンは助けを与えてくれますが、まずあなたが変わることを決断しなければなりません。変わると決めたら、まず頭の中にいる人を解放する方法を学ばなければなりません。あなたが人に変わって欲しいと思い、それが叶わない時、あなたの願いは無力に変わり、それがフラストレーションに変わります。その人がフラストレーションの原因になってしまうと、その人は外側にいるだけでなく、あなたの内側にもいることになります。その人はティンブクトゥ(マリの都市)に移ったかもしれないけれど、その人はあなたの頭の中に居続けています。『ギーター』の第5章と第6章を見てみると、クリシュナ神は瞑想する人について多くの時間を費やして語っています。
人に対して「こうであって欲しい」「こうでないで欲しい」という思いをただただ手放し、あなたの内側にいるその人を解放した時、初めてあなたは瞑想者になります。あなたの考えの中のその人に対する印象というのは、すべてあなたの認識に基づいているということを理解する必要があります。つまり、事実とは別にあなた個人の見方において、彼や彼女はこういう人だと見ている、ということをはっきり識別するのです。自分の認識が間違っているかもしれないと理解したとき、あなたは現実を受け入れたことになります。現実を受け入れることは客観的であるということです。外側の世界に対して客観的であり、あなたの身体に対して客観的であり、あなたの呼吸に対して客観的であり、あなたの考えに対して客観的であります。いったんこの客観性を身につけると、瞑想する人、つまりイーシュワラと関わりのあるベーシックパーソンにたどり着きます。
瞑想の実践
背中をまっすぐにして座り、両手を膝の上に置き、指は軽く組み合わせ、親指は解いた状態で互いに軽く触れ合います。クリシュナ神は『ギーター』の第六章において、瞑想のための重要なステップを述べています。身体、特に体幹はまっすぐに、基底部に対して垂直になります。これが座る姿勢です。体はリラックスし、かつ安定していなければなりません。これは、瞑想の間ずっと同じ姿勢をとり、同時に緊張や不快感がない、ということです。座るときの姿勢は、組んだ脚をゆったりと広げ、快適でなければなりません。
決められた姿勢で座る必要はありませんが、一度姿勢を選んだら、その姿勢で長時間座る練習をしなければなりません。最初のうちは難しいかもしれませんが、練習を重ねるうちに、長時間同じ姿勢で快適に座ることに慣れてきます。48分間同じ姿勢で快適に座ることができるようになったら、あなたはアーサナ シッディ(座法の完成)を体得します。48分は一つのムフールタ(単位)を示しています。この長さの間同じ姿勢で座ると、アーサナ シッディが得られます。聖典では、瞑想のために足を組んで座る姿勢であるスワッスティカーサナまたはパッドマーサナを推奨しています。このアーサナは瞑想の成功を保証するものではなく、目的はあなたが快適に座っていられるようにすることです。姿勢は、瞑想のために十分に快適でなければなりませんが、あまりにも快適であってはいけません。さもなければ、眠りに落ちるでしょう。
その姿勢で座ったら、上下や左右を見ずに、まっすぐ前を見ます。目は優しく閉じ、鼻先に集中します。目はきつく閉じてはいけません。目を閉じる際は、上まぶたが下まぶたにそっと触れるのを感じられるくらい意識的に行ってください。真っ直ぐ前を見て、そっと目を閉じます。もう一度、目を開けて、上まぶたが下まぶたと互いに柔らかく触れ合うようにして目を閉じます。目を閉じるという単純な行為の中にも、リラクゼーションを見つけることができます。
次のステップでは、いくつかの視覚化によって外界を外界に保つ練習をします。山並みを思い起こしてください。あなたはこれらの山に関して「こうであって欲しい、こうでないで欲しい」といった要求はなく、感謝に満ちて眺めている人です。同様に、あなたは海が今とは違うものであることを望んではいません。公園の木々のグループを思い起こしてみてください。再び、あなたは同じく、感謝に満ちて眺めている客観的な人です。
今度は、一般的な人々、異なる文化、人種、宗教、国籍を持つ人々を思い起こしてみましょう。あなたは、それらをありのままに客観的に受け止めることができます。背が高くても低くても、男性でも女性でも、自分の中に偏見を抱いていなければ、すべての人に対して客観的になれます。こうした感情を壊さないようにしながら、あなたの母親のことを想ってみてください。そして、あなたが彼女のために持っている愛と心遣いを想ってみましょう。もしあなたが彼女に今とは違った存在であってほしいという意図を持っているならば、あなたは無力感を経験します。
満たされていない願望が叶わないと、フラストレーションの原因になることがあります。他の努力は有効ではないので、行いはこの場合において、祈りという形にすることができます。当分の間は、あなたのお母さんがそうであることを受け入れてください。彼女の背景を考えると、彼女自身が変わりたいと思わない限り、彼女は変わることはできません。あなたの父親をイメージして、「私の見方において、父はこういう人に見えるのだ、私の見方において、父はあのような人に見えていたのだ」と認識してください。配偶者、子供、兄弟、友人なども同様で、あなたの認識において、彼らはこのような人に見えています。もし誰かがあなたを悩ませているなら、その人をこのように客観視し、その人にはあるがままでいる自由を与えてください。これが、あなたがその人にすべき、客観的で実用的な対処方法です。私は、あなたにその人の行いを承認すべきだと言っているのではありません。単に、「あなたの認識において、彼や彼女がそんな風に見えている(事実は違うかもしれない)」ということを認めるのです。そして、あなたの頭の中からそれらのすべてを解放して、彼らにあるがままでいる自由を与えます。これは瞑想で座るたびにゆっくりと出来るようになっていくのです。
次に、あなた自身の身体に注意を払います。頭頂部、額、眉毛、まぶた、鼻、唇、顎、右耳たぶ、右頬、左耳たぶ、左頬、顔全体、後頭部の順序で、頭から足まで、身体の部分部分を眺めていきます。次に首、右肩、右手を眺めます。左肩、左手の指先に至るまで眺めていきます。胸部、腹部、そして背中を肩から下へ向かって眺めます。次に、足に意識を持っていきます。右の太もも、膝、膝下、足首、足を視覚化してください。今、体全体を視覚化し、身長、体重、性別、年齢、健康状態、肌の色、外見に関して、身体がどのようなものであるかを理解してください。全身を一度に視覚化し、それを呼吸する彫像、生きている、呼吸する彫像として眺めてみてください。このステップを達成すると、自分の身体を完全に客観視することができます。
瞑想の次のステップは、呼吸を目のあたりにすることである「プラーナヴィークシャナム」と呼ばれています。これは、呼吸法のプラーナーヤーマと混同してはいけません。プラーナヴィークシャナムでは、自分の呼吸を観察します。呼吸をしながら、吸気と呼気を意識します。普段のリズムを変えずに呼吸を観察するのが難しい場合は、意識的に何度か息を吸ったり吐いたりしてみましょう。あなたの呼吸を観察することは、日中にあなたが興奮したり、動揺したり、怒ったりした日であったとしても、あなたの心を静かにする非常にやりがいのあるテクニックになり得るのです。呼吸を観察すると、ある程度の客観性と落ち着きがもたらされます。
次のステップは、触感に意識を向けることです。あなたの身体のどの部分が床に触れているか、どの部分が互いに接触しているかに注意してください。あなたの膝の上で組み合わせた指がどのようにお互いに触れているかを観察します。上唇と下唇がお互いに触れていること、まぶたがお互いに触れていることを意識してみて下さい。
ここまでのステップが成功した後、あなた自身の考えを観察し始めます。観察されている考えはたいてい静かです。そのようにさせておきます。この考えを意識しているのはあなたです。この人は考えにおいてイーシュワラと関わっている瞑想する人です。瞑想する人はすでにイーシュワラと関わっていますが、イーシュワラはあなたが視覚化できる特定の形で呼び起こされます。花を置き、この祭壇にあなたの礼拝を捧げてください。自分の祈りを捧げることもできます。「神よ、私が変えることのできないものをおおらかに、そして明るく受け入れるための考えの落ち着きを私に与えてください。変えられるものを変える勇気と意志を私に与えてください。変えられないものと変えられるものの違いを見極められる分別がありますように」。考えを観る者とは、イーシュワラとのつながりを助長するために、考えの中でプージャを行ったり、マントラを唱えることで、イーシュワラとの関わりだけを考えの中でハイライトして見る、ベーシックパーソンです。
さあ、考えの中でイーシュワラの名前を唱え始めてください。これがジャパと呼ばれるものです。マントラを持っていない場合は、「オーム・イーシャーヤ・ナマハ」と唱えても構いません。これは「イーシュワラに、私のナマスカーラ、敬意を捧げます」という意味です。考えの中でのチャンティングは呼吸とは何の関係もなく、あなたの声とも繋がりはありません。チャンティングは呼吸のリズムとシンクロナイズしないように、小さな声も伴わないようにしなければなりません。2 つの連続したチャンティングの間にある間隔は、しっかりと観察する必要がある重要なスペースです。マントラを唱えるだけでなく、マントラとマントラの間隔を意識することで、気が散らないようにします。すべての散漫な考えはその間隔において起こり、その間隔を意識することで考えが散漫にならないようにすることができます。それが長いチャンティングである場合は、チャンティングの区切りごとに間を置きます。チャンティングの区切りで唱えるのを止めている時は、自分の意志を使っていない事実に気づき、あなたはただあなた自身であることに気づいていなさい。チャンティングが散漫になるのを避けるために、間隔を意識します。チャンティングのリズムに慣れたら、スピードを上げてみてください。スピードを上げて唱えると、呼吸が乱れやすくなるのを見なさい。このような場合は、チャンティングが純粋にメンタルなものではないことを意味しています。わずかにあなたの話す機能が考えに加わっているのです。この後、通常のチャンティングを再開します。
声と呼吸からチャンティングを切り離すための簡単なテクニックを使うことができます。簡単な計算を頭の中でしてください。数字を思い浮かべ、それを10倍し、それに15を加えて25を引きます。答えにたどり着いた考えの場所をマークし、すぐにその場所にチャンティングを置き、チャンティングを開始します。チャンティングが今、考えのもっと深いレベルでどのように起こっているかを観察してください。違いがわかるでしょう。ここは、あなたの感情をうまく扱う場所であり、自由と創造性の場所です。チャンティングを再開し、しばらくしてから、より深く没頭出来るようになるため、再び心の中で簡単な計算をします。チャンティングとは何をしているのかを観察し、その過程で、あなたは心地よくなります。
チャンティングを止めると、自分は何もしていないように見えますが、それぞれの瞬間に起きていることは何であれまだ心地がよいはずです。このように、瞑想全体の間、何度かチャンティングを始めたり、止めたりすることができます。ベーシックパーソンとして、自分が自分自身であるための努力は何も必要ないということに気がついてください。世界に対して、自分の身体に対して、自分の呼吸に対して、自分の考えに対して、ありのままに気づいていることで、あなたは客観的な人です。言葉や音は聞こえてきますが、あなたの意志はしばらくの間保留されています。人間の特権である自由意志は、使うこともできるし、中断することもできます。このように、シンプルで意識的な人間として、緊張や努力、そして意志を使うことなく、それぞれの瞬間に起きていることに気がつくことができます。
私が、「オーム…オーム…オーム…オーム…オーム…オーム…、ゴーヴィンダ」と言う時、音が耳に起こります。それに対するジャッジメントはありません。ただただ自分自身であることで、その瞬間を生きているのです。あなたが自分自身であることに満足しているならば、あなたは自分自身に次のように言い聞かせて、この事実を認識できるのです。「私は私自身でいることで心地よいのだ。外側からの安心を必要としないのが私なのだ。私は外側からの安心を必要としない。ということは、私が他のすべての人にとっての安心の源なのだ」。外側からの安心を必要としない人が私、なんという発見でしょうか!
メンタルチャンティング、ジャパ
人間の自由は、自由意志の行使にあるのではなく、自由意志を停止(保留)する能力にあります。自由意志の停止は、人間にとって自然な状態です。身体、考え、呼吸を客観視することで意志が停止されると、自分の中のどの機能が意志に基づいていて、どの機能がそうでないのかについて、より大きな洞察を得ることができます。例えば、あなたは呼吸をするために意志を使いません。それはただ起こっています。同じように、聴覚も起こります。あなたは聞くために意志を使いませんが、あなたが目を覚ましていればいつでも聞こえ、そこに音があれば耳は聞くことができます。ジャパを定期的に行うことで、自由意志の使い方をより掴むことができます。
瞑想では、空想することをやめればやめるほど、あなたは限りのない存在であるという現実にくつろぐことができます。あなたがあなたに知られている対象を思うとき、それは単に空想ではありません。実際のところ、知っていることを思い起こしているのです。星を思い浮かべるとき、あなたはすでに星が何であるかを知っており、(夜でなくて)星がない状態でも、その特定の知識を形にして思い起こしているだけです。最近では多くの瞑想方法があり、そこでは身体の異なる部分にあるチャクラを空想するように求められています。しかしこの方法は、心を内側へ向けるという点では何かを与えてくれるかもしれませんが、古典的な先生方はこの方法を推奨していません。
瞑想は、メンタルレベルで行われるプージャーとマントラを繰り返し唱えること(ジャパ)の両方を含むことができます。それらだけでは、あなたの人生に変化をもたらすことはできません。マントラは繰り返し唱えることで、その効力を発揮します。言い換えれば、あなたの信念とコミットメントによってマントラに力を与えるということです。人はマントラを繰り返すことで考えが機械的(単調)になると思うかもしれませんが、自分が何をしているかに気づいている限り、そうではありません。マントラを繰り返すという予測可能な仕事を自分に与えて、考えが散漫になったら、それをただ戻すだけです。考えレベルで行われるマントラの詠唱は純粋に考えレベルで行われなければなりません。マントラを唱える行いを声と呼吸に結びつけることは、身体と呼吸を客観視する為の最初のステップの効果を無くしてしまいます。ジャパ は完全に考えレベルの行いでなければなりません。声は、たとえかすかな声であっても加えるべきではありませんし、詠唱は呼吸とシンクロナイズするべきではありません。
いくつかの瞑想の流派では、シンクロナイズして(呼吸に合わせて)詠唱するように指示します。詠唱の一方の部分は吸気で、他方の部分は呼気で詠唱します。この例として「ソーハム瞑想」では、ソーと唱えながら息を吸って、ハムと唱えながら息を吐きます。これは考えレベルで行われる詠唱とはあまり言えません。なぜなら、瞑想の定義で言われたマーナサクリヤは考えだけの行いで、声を出す行いや呼吸の動きとは関係を持たない行いだからです。ジャパの練習でこうした資質を身につけるのに数年はかかるでしょうが、そうすることで、あなたは自分の感情と思考のパターンを自由に操ることができる人になれるのです。定期的なジャパの練習は、沢山のスペースを生み、自己に専心(没頭)することができ、その結果、自分自身にアクセスすることができるようになるのです。考えの中でマントラを繰り返す場所は、すべての創造性、気づき、そして明晰さがなし得る場所なのです。
マントラのもう一つの重要な側面は、それが意味深いものでなければならないということです。意味のない音を唱えて、それをマントラと呼ぶことはできません。瞑想の一部の流派では、意味を説明せずに、自分たちでビージャ(種)のマントラを与えることに特化しています。「意味のない音」として、14のビージャマントラが定期的に与えられているのです。ビージャマントラを彼らが唱えることは、「サグナ ブラフマ」の基準を満たさないため、瞑想の定義に反しています。瞑想する人に認識されるイーシュワラの名前とその意味だけが、ベーシックパーソンからさらなる帰依者を引き出す能力を持っているのです。瞑想は真剣な修練なので、無意味な音を唱えていては真剣ではいられません。したがって、マントラは意味深いものでなければなりません。瞑想は精神的な祈りなのです。それはイーシュワラに集約されるものです。現代の瞑想ではマントラが与えられます。彼らはそれをマントラと呼び、そこに意味はないと言います。すると以下のような状況が起こり得るのです。
この人はアメリカ人で、目を閉じ、足を組んで座って瞑想していました。彼の妻は、非常に現実的な女性で、仕事から戻ってきて彼に尋ねました。
「トム!何をしているの?」
「瞑想しているんだよ」
「瞑想って何?瞑想で何をしているの?」
「何かをしているんだよ」
「何のために?」
「ストレスから解放されるためだよ」
「ストレス?どんなストレスがあるというの?私が全部しているじゃないの。仕事も、料理も、食器洗いも、洗濯も、掃除機がけもしているわよ!」
「自分で抱えているストレスがあるんだ」
「瞑想では何をしてるの?」
「マントラを唱えている」
「マントラって何?」
「音だよ、意味はないが私の為に特別に選ばれたものだ」
「誰かが意味のない音をあなたの為に特別に選んだの?どうやって?何を根拠に?
あなたの鼻を見て?どうやって選んだの?」
「まあ、君には分からないことだ。これはインドのもので、本物なんだよ」
「あなた、彼に何か払ったの?」と彼女は尋ねます。彼女はとても現実的な女性です。
「うん、100ドル払ったよ」
「なんですって!無意味な音のために100ドルも払ったの?私なら10ドルで同じようなマントラを100個あげることができるわよ!私は新しい掃除機が欲しいと言っているのに、あなたは私のためにそれを買わずに、無意味な音に100ドル払ったのね!一体どんな音なの?」
「悪いけど、それは言えない」
「どうして?」
「私は秘密を守ると誓ったからだ、誰にも明かすことはできないんだよ」
そのようなマントラを与える人々は、まさにこのようなことを行い、あなたに署名するように求めます。そうすることで、ビジネスを継続することができるのです。
「教えてくれないのね?」
「言えないんだ。これは秘密なんだ。私は書類にサインしたから、それに逆らうことはできないんだよ。誰にも言うことはできない」
「私が誰だかわかっているの?私はあなたの妻よ」
「だから何だ?秘密は秘密なんだよ」
「あなたはそれを私に与えることはできないのね。あなたの妻は、あなたに全てを与えているというのに!ごめんなさい、もうこの家を出て行くわ!」
彼女はスーツケースに荷物を詰めに行って、それから彼女は戻ってきましたが、彼はまだ目を閉じて座っていました。彼女は彼に向かって叫びました。
「私は永久にこの家から出て行くわ。あなたのマントラはあなたのために料理をして、洗濯もしてくれるでしょうね」そう言って、彼女は出て行きました。
彼は目を全開にしました。そして、彼は言ったのです「オーマイゴット、マントラが効いたんだ!」(笑)
マントラは夫にも妻にも効きました。マントラは一方的なものではありませんでした。妻は、意味のない音のために百ドルを払った人を追い払い、夫はストレスから解放されました。
ジャパは、イシュタ・デーヴァターの姿の視覚化された形と結びつけてはいけません。実際には、イシュタ・デーヴァターを視覚化することは、ジャパの前に行わなければなりません。それは、ジャパとは全く異なる瞑想です。瞑想する人は2種類の行動をとりますが、どちらも精神的なものです。一つは、自分のイシュタ・デーヴァターを視覚化して、考えレベルでのプージャーを行います。もう一つは、形を視覚化せずにマントラの詠唱を繰り返します。瞑想の過程では、神を唱えることと視覚化することの両方はできません。考えはとても瞬間的なものなので、二つのことを同時に行っているかのように見えるかもしれませんが、それはただ注意が外れているに過ぎないのです。
イーシュワラは空想するものではないことを理解する必要があります。ですから、その背景にある知識がとても重大なのです。イーシュワラは信じるための話題ではなく、理解するべき話題なのです。私たちは毎日何年も人と一緒に生活していても、その人のことをまだなお理解しようとしています。配偶者や両親について新しいことを発見することも多々あります。その人がどんな人であるのか知っていると信じて済ますことができないように、(鵜呑みにすることができないように、決め込むことができないように、)イーシュワラもまた時間をかけて発見し、理解していかなければならないのです。イーシュワラと関わるということは、この発見のプロセスが始まるということなのです。
オーム・タット・サット