翻訳:Rina Ishizuka, Kazumi, Tomoko

  瞑想の定義

ディヤーナ厶つまり瞑想は、マーナサ・カルマ、考えレベルの行いを意味します。瞑想の定義は「​サグナ・ブラフマ・ヴィシャヤ・マーナサ・​ヴィヤーパーラハ​」つまり、イー シュワラの姿を装ったブラフマンに関係した考えレベルの行いです。この定義では、「没頭した行い」を意味する ヴィヤーパーラハは、「マーナサ」という言葉によって修飾されています。ある 言葉が形容詞によって修飾される時は、修飾される必要があるべきです。慎重に言葉を使う人は理由なしに形容詞を使いません。

言葉というのは意思伝達のためにあります。ある対象物を他の物と区別して伝えたい時に、形容詞を使います。「高い木」と言うとき、「高い」という単語は形容詞となります。もし全ての木が同じ高さであるなら、「高い木」「低い木」などと言う必要はありません。形容詞には名詞を修飾することで、他のものとを区別する性質があります。形容詞「高い」はこの木ほど高くはない他の木を否定し、他の木と区別します。

しかし、「甘い砂糖」や「良いサドゥ」とは言えないように、余分な形容詞もあるのです。もし苦い砂糖や酸っぱい砂糖があれば、「甘い」という形容詞を使わなければならないでしょう。同じように、サドゥとはそもそも良い人のことです。良くないサドゥはいませんので、「良いサドゥ」というのは、言葉として存在しません。「メンタルな考え方」や「知的な知識」のような表現が見られることがありますが、「デンタルな考え方」が存在しない限りは「メンタルな考え方」のような表現を使う必要はありません。知識は常に知性において起こりますし、考えは常にメンタルなものです。したがって「メンタルな考え方」と言う必要はないのです。

もし瞑想が「考えレベルの」という言葉で修飾される「行い」なら、それは全ての身体的な行いを否定しますが、それは同時に「考えレベルの」他の行いも否定していることを意味します。どんな想いも考えレベルの行いです。悲しみだって人の感情の表現であり、考えレベルの行いです。もしこれが瞑想であるなら、人は常に瞑想状態にあるのです。夢の中でも多くの考えレベルの行いがあるので、そこでも人は常に瞑想状態にあるということになってしまいます。

私たちは瞑想とは何かを理解する前に、他の似たような行いが瞑想だと勘違いされないよう、瞑想を他の考えレベルの行いと区別し、明確にしなければなりません。​マーナサ・​ヴィヤーパーラハ​という言葉においては、​マーナサ​という言葉は他の考えレベルの行いと瞑想を区別する形容詞です。ゆえに、私たちはどんな種の行いが瞑想なのか、定義する必要があります。定義においては、​ある対象物を、​同じグループに属する対象物からだけでなく、他の全ての対象物から区別します。定義はただ一つのことを示すべきです。それにより、瞑想は明確な 行いになるのです。

Isvaraを理解する

瞑想の定義「イーシュワラの姿を装ったブラフマンに関係した考えレベルの行い」は、イー シュワラを理解することなしには正しく理解することは出来ません。​聖典は、全宇宙「ジャ ガット」の原因はブラフマンである、と言います。​ジャガットは知られるもの知られざるも の、全てを包括します。ジャガットはブラフマンから生まれ、ブラフマンから離れてはいません。ブラフマンは、イーシュワラの姿を装ったブラフマン「サグナ・ブラフマ」、つまり「​創造主​の現れ」と呼ばれます。「サグナ・ブラフマ」は「イーシュワラ」、つまり全宇宙の原因の神です。「原因」という言葉は、​ジャガットの世界における​「知能を持った生物」のみでなく、その創造維持のために必要な素材も含みます。

ポットの作り手と土、つまり、ポットとポットの作り手は空間によって隔てられている、という場合とは異なり、​源の素材は作り手から離れることはありません。ポットの作り手がポットを作ると、ポットは彼から離れた作品となり、異なる場所に存在します。ここでの離れている原因は空間ですが、その空間自体がブラフマンの作品、創造物なのです。時間と空間もまたジャガットの一部です。古典的な物理学においては、時間と空間は永久不変(絶対的なもの)であると考えられてきましたが、もはやそうではないのです。

私たちは長い間このことを訴えてきました。タイティリヤ ウパニシャドでは、世界は創造物である以上に、それ自体が(ブラフマンの)現れであるという事実を大いに展開しています。ゆえに空間とは、ジャガットの一部なのです。作り手と素材が同一であるように、作り手から素材を引き離す空間など存在しないのです。その時だけ、ジャガットはその原因から切り離されていないという概念が主張されます。​もし作り手と素材が同一であるなら、原因もまた素材なのです。

ここでのロジックはシンプルです。あなたのシャツのように、作られたあらゆるものは、作り手を含むということです。ジャガットは知的に組み立てられています。つまり自然や物理の法則に従って維持されています。もしこうしたジャガットの様相を熟考してみると、ジャガットの作品は限りない知識と技を持つ「知能を持った生物」を含む、ということが明らかになりま す。もしジャガットが人間の創造物ならば、人が知識や技を失ったときに、ジャガットが唯一の創造主となり得る、より大きな源から知識を探し出さなければならないでしょう。

仕立屋が生地を切って縫い合わせることでシャツを作るとき、生地はシャツにとって不可欠な一部になります。シャツがあるところには生地が存在します。シャツは素材から独立して存在することは出来ませんので。言い換えれば、素材から独立して存在出来る製品はありません。結果(成果)はいつでも素材という原因により成り立っています。

結果はいわゆる上乗せされた価値なのです。シャツやパンツ、Tシャツまたはハンカチの形となっただけで、同じ生地から出来ているのです。生地は素材であり、出来上がった製品は生地から独立することはありません。生地や他の素材の存在しないシャツを想像してみてください。出来ないでしょう。シャツを思うと生地を思い浮かべるでしょう?しかし、シャツを思うこと無しに、生地を思い浮かべることは出来ます。

それと同じように、ジャガットはその原因から独立していません。イーシュワラの姿を装ったブラフマンは、全宇宙ジャガットに充ち満ちています。まるで生地がシャツ全体に行き渡っているように。このイーシュワラ、つまり全知全能の存在は、宇宙として形作られたものにおける知的な原因であり、その宇宙を維持したり、撤回する能力を持っています。

そうでないと、誰かが何かを作り出すけれども、それを保持することが出来ないので、全ての創造物は問題になり得るます。誰かがそれを動かすことは出来ても、制御がきかなくなったその創造物を止めることができなかったり、それを元に戻すことが出来ないなら、その創造物はフランケンシュタインのようにモンスターに豹変してしまいます。これは人類の限界を例示しているのです。

ジャガットはパワーであるシャクティを含む、現れた姿です​。このジャガットの創造主イーシュワラは、素材の源であるシャクティから離れていませんので、全てに充ち満ちています。つまり、​ジャガットとして顕在化したブラフマンを指して、​サグナ・ブラフマまたはイーシュワラと呼ぶことを意味します。

もしイーシュワラが充ち満ちているなら、いくつかの疑問が浮かびます。彼は私にも充ち満ちているのでしょうか?「彼」や「彼女」の全てに充ち満ちているイーシュワラは、私のこの体、考えやセンスも間違いなく含むはずです。素材の源の観点からは神は女性であり、作り手の観点からは神は男性です。こうしたイーシュワラの両側面は​アルダナリーシュワラ​を装った姿に見られます。ダクシナムルティは、神は「彼」であり「彼女」であることを示唆するように、それぞれの耳に着けた異なる耳飾りを​崇拝する​ような姿をしています。